変容する主体(6)実存思想 ロブ・グリエ
一切の超越性を否定するならば、不断の挫折を生きつづける実存はどうなるのか?
それは、たとえば「アンチ・ロマン」のロブ・グリエである。
ロブ・グリエは、いっさいの既成文明を否定する。
芸術にせよ、道徳にせよ、政治にせよ、宗教にせよ、既成のものはすべて、なんらかの一定の価値概念、普遍的予定調和的なものに支えられた架空のものだというのが、ロブ・グリエの主張である。
たとえば、人間の或る身ぶりでさえ、心理学的に説明されてはいるが、心理学的規定そのものの普遍性はありえないから意味がなく、その身ぶりは身ぶりとしての物質的なあり方を示しているにすぎず、それを見る視覚的位置だけがたしかなのである。物と人間との関係に、人間がなんらかの形而上学的な架け橋をかけることが、ヒューマニズムのおかす過ちだと、ロブ・グリエは告発する。
世界と人間存在とのあいだに、なんらかの恒常的な関係、或る隠された統一的秩序を予定することをいっさい拒否すること、それこそ、人間の存在を人間たらしめ、物を物とし、世界を世界とすることである。
たとえば、一つの風景に対してわたしが悲しい風景と表現するとき、それは、風景とそれを見る私とのあいだに精神的交感を予定すること、さらにいえば、ひとつの予定された運命を承認することである。(中略)それこそ、物と人間、世界と人間のあいだに、或るなんらかの内的交わりを予定する場合の大きな錯覚であり、汎人間的観念論である。
あらゆる存在間の形而上学的契約を拒否することから、ロブ・グリエにとっては、人間と人間とのあいだの内的交わりもまた、架空の欺瞞となる。
かくしてロブ・グリエにとって、実存とは、不運、挫折、孤独、有罪性、狂気を不幸な出来事として迎え、それに抗して戦いながら、同時にそれらを人間の犠牲において養いつづけることの問題となる。一言でいえば……
実存は不可能性を可能性として生きながら、無限の断絶のかなたにいかなる超越的なものの実体化も拒否することにある。
たといなんらかのイメージをつくりあげ、それに呼びかけても、その呼びかけは、存在もせず答えもしないイメージにむけられた<かぎりない彷徨>なのだ。この到達不可能性のなかでの彷徨こそが、実存の真の孤独なのである。
もちろん、「無」もまた不可能性の可能性としての架空にほかならないから、実存には虚無への到達もまた、不可能である。(中略)救いがなくとも到達不可能を生き続けるこの実存も、まさしく、解体した現代における人間疎外を脱却しようとするこころみである。
「外観は永久運動だが、悲劇はその下で、外観とは反対に世界を鈍くうなる呪詛のなかに凝結させている。悲劇がわれわれにわれわれの不幸を愛させようとめざすやいなや、もはや、われわれの不幸を癒やすための薬をさがしもとめることは問題ではなくなる」
「ともかく可能でありそうで、実際は可能でないのが<自由>だ」(ロブ・グリエ『自然、ヒューマニズム、悲劇』)
ロブ・グリエの実存はニーチェ的実存を受け継いだものだといえるが、ニーチェにおける極限者はロブ・グリエにあっては、人間存在の普遍的・根源的なあり方として措定される。
ロブ・グリエの作品を読むと、不安や孤独あるいは狂気という<呪詛>に包まれる感覚をともなう。それは、即自的な眠りに陥っている読者を覚醒させる効果を担っているのだろうけれど、湿った抒情を好む我が国の読者には受け入れがたいものかと思われる。哲学の国フランスと詠(うた)の国日本との、人情の違いが可否を左右させるだろう。
「ロブ・グリエにとっては、人間と人間とのあいだの内的交わりもまた、架空の欺瞞となる」……
これはハイデッガーの言葉を流用すれば「存在と存在者との区別」を、もう少し深く掘り下げて行くべきなのではないだろうか? Logical thinking は時として、言語上の論理的整合性や徹底性にのみ重きを置いて、人間存在の非論理的性質を見落としがちになるだろう。
人間存在は意識を持つ存在であり、この意識というもの自体は存在しないかもしれないけれども、私という存在の有り様を左右するとともに、<私>を超えて、「越境」するものではないかと。
決して、「架空の欺瞞」だと、切り捨てることはできないのではないだろうか?
この問題については、永井均『世界の独在論的存在構造』および、市川浩『<身>の構造』に関する論考で詳しく展開したいと思う。
「わが自我観の変遷(7)実存哲学と原始仏教」に続く