わが自我観の変遷(4)実存思想 カフカ

実現不可能の挫折を生きる一つの可能的在り方に「無限の追放と彷徨」という生がある。


 この実存のすがたを、<彷徨>においてもっとも徹底させたのは、絶望と希望とを同時に糧とした、もっとも悲痛な、先駆的で天才的な作家フランツ・カフカである。


 ドイツ帝国主義によって植民地化されたチェコの都市プラーハの小市民であり、祖国を持たないユダヤ人であるカフカは、いわばすでにはじめから祖国喪失者であり、現実世界からの追放者であった。
 自分がほんとうに呼吸し存在できる場所をえたいという欲求はカフカの本質的な欲求であったため、彼はこの現実世界において自己の運命を実現し、家庭と子供をもち、連帯的社会の一員でありたいし、あらねばならないと心していた。
 しかし彼にはそれが不可能であり、到達すべきものに到達できないことの不可能性が、まさしくカフカの<不安>だった。束縛と追放とを感じながら、新しい別な世界への希望とその希望実現の不可能性にたいする絶望とが、カフカの存在そのものを支える、彼そのものの存在理由なのだ。


 カフカは、自分がもとめていながらしかも到達しえない、人間にとって原始的でしかも超越的であるもの、それを<破壊されないもの>と呼んでいる。ユダヤ人であるカフカにとってそれは「約束の地カナン」ということになるが、これはまた人間存在がゆきつくべきところの「掟」(おきて)でもある。彼が夢見る「約束の地」への道は、至るべき道のない道である。いたるべき道のない「約束の地」は、希望の夢であると同時に絶望の悪夢なのだ。
 カフカにとって追放とは、現実世界の束縛と試練に耐えて、そこからカナンの地に向かうことだが、同時に「約束の地」から追放されて、荒野を彷徨することなのだ。


「生の瓦礫の内からのみ自由が目ざめ、そうした瓦礫の内においてのみ人間は生きることができる」(カフカ『日記』より)


 超越への救いを希望しながら、あえて絶望を糧とすることに人間実存の根源性があることを、カフカは確認する。
 カフカの自己救済のこころみは、文学にのみあったが、しかし、彼は芸術家という特権意識をまったく所有していなかった。彼は労働保険局に働いていた一市民であり、芸術家という特権意識をプチ・ブル的因襲観念として否定し、むしろ芸術家を社会的平均人よりはるかに小さくて弱い存在とみなしていた。かれは農夫か職人としてパレスチナへ行くことを夢見ていた。
 物との謙虚でしかも生き生きとした接触による手仕事が人間を人間らしくする共同社会、労働を芸術制作のごとく自由な創造としてわかちあう社会、それがカフカのユートピアだった。そのユートピアが約束の地カナンと同じことであり、現代社会における商品化という人間疎外からの回復の夢であることは、いうまでもない。しかしこのユートピアから無限に断絶されていることから、カフカは自己自身を<無>に近い存在としてとらえていたのである。
 この<無>の意識は、彼の実存の不断の緊張から生み出されたのであって、<無の存在>が、カフカの実存を保っているのではないのだ。


 カフカは長編小説『城』において、自分の分身であるかのような一人の平凡な測量技師Kを描く。実存的苦悩の連続のあげく、Kがある一瞬、ほっとする時を得る。あらゆる現実的なつながりが自分から断ち切られ、かつてなかったほど自分が自由であり、待ちたいだけ待っていいような気のする、めまいのような瞬間が。それはキルケゴール的意味での永遠と瞬間とが一致するとき、あるいは瞬間が永遠を所有するようなときである。
 しかし、カフカはその瞬間をえがくとき、強烈なイロニーをさしはさむ。


「この自由、こうやって待っていること、こういうふうに他人から傷つけられないでいること、それくらい無意味で絶望的なことはないように思われるのだった」

と。
 ここにカフカとキルケゴールとの決定的な差異がある。
 カフカ的実存にとって、希望による救いはなく、実存は超越的絶対との無限の断絶を生き続けるしかないのだ。
 永遠と瞬間との一致のときが所有できるとしても、それはめまいとしての想像的な架空の話である。そのような想像的架空に自己をゆだねること自体が、実存の喪失を意味する。
 『城』とは<約束の地>であり、<恩寵>であると同時に<裁きの掟>でもある。カフカの実存は、無限の希望と無限の絶望との葛藤がうみだす存在解体の無を放射しながら、追放と彷徨とを同時に生きることでしかない。

          「わが自我観の変遷5実存思想-ブランショ」につづく