変容する主体(3)実存哲学 サルトル2

引き続き、白井健三郎『実存と虚無』(平凡社:現代人の思想2)から要約して引用していきたい。

実存の宿命的不完全構造


対自が自己を即自でないものとしてとらえることは、すなわち……
・自己同一的に充実した存在ではないものとしてとらえることであり、
・即自的な充実、即自的な全体にたいして、自己を欠如したものとしてとらえること、
……にほかならない。
・無が対自としての人間の出現とともに、存在のふところにあらわれるように、
・欠如は人間の出現とともに世界のうちにあらわれる。


この関係は……
・対自が存在のふところに無をあらわさせるばかりでなく、みずからが無であるごとく、
・人間は世界のうちに欠如をあらわさせるばかりでなく、人間自体が欠如的存在である。(神のごとくはありえない)

欠如であるとは、この(即自的)全体であろうとして、自己を存在として充実させようと欲することである。
しかし、この充実が存在において満たされる(と仮定する)とき……、
・それは欠如としての対自存在が即自存在に堕することであり、
・人間がその時、その対自的なありかたすなわち実存であることを止めることにほかならない。

けれども、人間が対自であるかぎり、つまり否定性であるかぎり、自由であるかぎり、そのような自己充実は可能ではないのだ。存在欠如としての人間は、みずから無の根拠でありえても、自己自身の存在の根拠であることはできないのだ。

それにもかかわらず、欠如的存在でいるかぎり、その欠いているなにものかに、自己を充実させる一つの全体存在を、不断にめがけざるをえない。いいかえれば、「自己自身の無の根拠であるばかりでなく、自己自身の存在の根拠であるような存在」、すなわち一つの全体としての<可能性>を生き続けるのだ。


けれども、この全体性は、未来永劫に実現可能なものとしては決して現前化しない。
この全体性とは、人間が対自のままで、しかも即自であろうと企てることの可能的存在であり、その存在のうちに、対自と即自という両立不可能な性格を同時的に成立させるものでなければならないからだ。
それは不可能性の企てとして、あえて自己を失うことを企てること、挫折を生きることにほかならぬ。
そのかぎりにおいては、それはひとつの「受難」である。


しかし、人間がこの受難から身をかわして、何らかの存在、何らかの価値があるとみなすものに自己を合一させようとするとき、もしくは合一させえたと錯誤するとき、人間は、実存としての、自由としての、不断の否定性を失う。
実存を失うとは、人間の本来的ありかたを失うことであり、そのとき人間は非本来的であり、自己欺瞞的なのである。


したがって、自己実現という意味では決して現前化しないものであり、それは不在としての価値なのだけれども、それゆえにこそ人間が想像力によって築き上げる架空の存在として措定すべきものなのだ。
想像力とは、現実世界の地盤に立ちながら、これを非現実化することによって、なんらかの創造的対象をえがくことである。
非現実化とは現実を無化することであるから、想像力には根源的に否定作用がむすびついている。すなわち、想像力と実存的自由とは不可分なのである。
想像的意識を欠いた現実的意識はありえなく、同時に、現実的意識を欠いた想像的意識はありえない。
このことは、人間が世界・内・存在であること、つまり世界のなかに投げ出されてあることが事実性であることを意味する。
ダーザインとして現実世界に拘束されながら、しかもつねに現在の状況を変革し乗り越え、新しい創造による可能性を生きることが、人間の自由ということなのである。


ハイデッガーの実存は「存在の明るみ」に立つという哲学者的な超越にある。
それは「無のだだなかに保たれている」ために、否定性としての創造的自由ではない。
…これはサルトル的にいえば「実存たることをやめた」ことになろう。

          「わが自我観の変遷4実存思想-カフカ」につづく