変容する主体(2)実存哲学 サルトル1
サルトル…受難する実存として
キルケゴールからハイデッガー、ヤスパースの存在観には神的な残影や超越者という代替者が措定されていたが、
それを完全に払拭したのがサルトルであった。
「存在はある」……これが存在について言いうることのすべてである。
存在現象は、存在ではなく、「存在を指示し、存在を要求するところの意識」に対して自己を開示するかぎりでの、存在者の存在の意味である。
存在はそれ自体においてある。ということは、存在はこの自己そのものであるという意味である。これは、存在がまったく自己に充足してそれ自体に対して不透明であることにほかならぬ……。
……このようなありかたの存在をサルトルは<即自存在>という。
即自存在は、外に対する内、判断や法則や自己の意識に類似しているような<内>を、もっていない。
存在は決して或る他の存在とは<別のもの>として自己をたてることをしない。
存在は純粋偶然として、ただあるだけである。可能的でもなく、不可能的でもなく、偶然としてある。存在は、根源的・絶対的な意味において不条理である。
けれども、人間は意識を持った存在として、自己ではない存在を対象としてとらえる。意識は指向性として、つねにかならず、自己の外に、自己でない或るものを自己の対象としている。このとき、意識がその或るものを意識では<あらぬ>ものとしてとらえることであると同時に、意識それ自体をもその或るものでは<あらぬ>ものとしてとらえることにほかならぬ。
対象化という関係において根源的にあらわれるのは、この<あらぬ>という否定関係で或る。これは、対象にたいして意識が距離をとることであると同時に、自己を対象にむけることによって意識が自己から距離をとることでもある。すなわち、意識が自己から出て、自己のそとに出ることであるがゆえに、脱自的であり超越的である。しかも、意識は存在との結びつきから離れることがけっしてできないばかりでなく、意識は存在のさなかにしか出現することができない。
この否定関係としての裂けめとは、自己同一のまま充実した即自存在ではないもの、すなわち存在とは反対の<無>でしかない。それは意識からのみ生まれるはたらきとしての関係であるから、意識は、存在のさなかに出現しながら、存在について意識することによって、存在のさなかに<無>をしのばせ、存在のふところに<無を分泌する>といってよい。
サルトルは、このような意識の存在論的構造を<対自存在>と呼ぶ。意識は、自己自身に対すると同時に、自己ではない即自にむかって自己から離れてゆくという弁証法的否定性をはたらきとするといえる。
この無を生み出すとは、否定作用をはたらきとするとは、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものである」というありかた、要するに、脱自的、超越的ありかたである。
人間(存在の根源的な在り方)とはまさにこの否定性であって、この否定性をうしなうとき、人間そのものの存在の意味がうしなわれ、否定性なき存在、すなわち即自存在に堕するほかない。ここから……
<実存するとは、自己が現にあるところのものであらぬように、また自己がいまだあらぬところのものであるように、自己を成らせていく>ということが意味される。
69年当時、時代状況に無関心で大衆的な生活を送っている同級生に対して、私の仲間たちは「無意識過剰なやつだ」とシニカルに評していたのを思い出す。サルトル的にいえば<即自存在>に堕している、ということだね。ハイデッガー的に言えばダーザイン(現存在)となるが、両者の違いはどこにあるのだろうか?
ハイデッガーの実存が指向するのは「存在の明るみに立つ」という学者的立場であるのに対し、サルトルのそれは「挫折する運命を生き続ける」ということになろうか。一言では説明しきれないので、次稿で少し詳しく取り上げてみたい。