変容する主体(1)実存哲学 キルケゴール
現在的な<私>論を取り上げる前に、「荒地」派からスタートして、「六〇年代詩人」に至った時代における、私自身の自我観の変遷について予備知識として触れておきたい。
これは表現行為の主体である<私>というものをより根源的に考えると同時に、表現行為モチベーションの主要な源泉(のひとつ)として明確にしておきたいからなのだね。
したがってここでは、哲学的な位置づけをするものの、その思想の可否を問うつもりはない。詩の表現者として、どのような「私」を選択するのか、ということを考える材料として引用させていただきたい。
実存哲学の展開と構造主義の台頭
実存哲学は、観念論哲学でバベルの塔を打ち立てたヘーゲル哲学への批判として展開されていった。
白井健三郎『実存と虚無』(現代人の思想2、平凡社)から要点を記しておく。
ヘーゲル哲学は……
概念的思惟によって相対立するものを媒介統一し、それによって絶対者、絶対的理念(イデー)を、さらにその絶対者、絶対的理念が展開し発現するあらゆる現象を認識し把握する体系的学問とされた。つまり、ヘーゲルにおいては、真に完全な実在はただひとつしかない。それは、絶対的理念としての全体性である。すべてのものは、このひとつの絶対的全体性との関連においてしか、存在しない。
それは、個別的な存在の実在性を無視し否定することである。こうした抽象的イデーの絶対化によって、そのイデーを思惟する当人を抽象的にするとともに、個別的に生きた人間の実存を抹殺する。
ヘーゲル哲学は中世のキリスト教的神を絶対的理念という概念で置き換えたものといってよい。
ところが、時代は14世紀のイタリアルネッサンスの勃興から16世紀のヨーロッパルネッサンスへのひろがりの中で、封建社会と神中心世界観の束縛から、人間性の自由・解放を求め、ヒューマニズムと個人を尊重する風潮が強まっていた。
そのなかから、キルケゴールの実存的キリスト教信仰やカール・バルトの危機神学が生まれ、それの逆説的展開としてニーチェの能動的ニヒリズムが出現する。
キルケゴールにおける、人間の本来的自己とは超越的絶対者にかかわる自己であり、そのような自己でないかぎり、つまり、絶対者との断絶を生きるかぎり、不安と絶望にたえまなくありつづける存在である。
これに対しニーチェにおける単独者は、この絶望においてもなお、超越的絶対者にかかわることを断固として拒絶し、あくまでも自己自身であろうとする。
キルケゴールの「自己疎外の自覚とその回復をめざす主体的運動」という実存観はヤスパースに継承される。
しかし、キルケゴールでの神は、ヤスパースにおいてはより一般的な<超越者>に代置される。
キルケゴール的実存が逆接を生きるという啓示的信仰、すなわち理性の否定であったのにたいして、ヤスパースの実存はもはや非理性的ではない。
そして、ニーチェにおける極限者は、ヤスパースにおいて極限状況として展開されており、その状況下で人間は挫折せざるをえなく、しかもその挫折を通して人間は超越者にむかうとされた。キルケゴールによって強調された神との非連続性による直接的な交わりの不可能性が、逆に可能性として回復されるのである。存在欠如として提示された実存的性格は、ここでは消失している。実存が本来的自己の単独性に徹底してゆくのにたいして、ヤスパースにおいては統一への意志として、実存をその根拠たる超越へとめざめさせる。
同じ実存哲学といっても、相反する方向に向かってしまう状況にあって、ひとつの方法論となったのがフッサール現象学だった。
キルケゴールとニーチェの影響を受けたハイデッガーの実存もまた、ヨーロッパのニヒリズム=人間の自己喪失に対する挑戦としてあらわれている。アリストテレス以来の形而上学は、存在と存在者との区別を自覚せず、存在の真理が伝統的な自明性の背後に隠れてしまっており、この存在忘却こそ、現代ヨーロッパのニヒリズムなのである。
存在の問いに先立って、現存在をその存在である実存に関して問うことこそが、ハイデッガーの出発点であった。
存在を正しく問うためには、問題提起が正しくなされなければならない。問うということは、問う者としての存在者の存在様態であるから、存在問題を探求するためには、なによりもまず問うている存在者をそれの存在において透明にしなくてはならない。
存在を問うということを自己の存在の可能性としている存在者とは、われわれ自身が各自それであるところの「現存在」である。それゆえ、存在の意味へのはっきりとした透明な問題提起は、存在者(現存在=Dasein)を、その存在に関して、前もって適切に明らかにしておくことを要求する。
ハイデッガーの実存は、自己から存在への脱自的存在であると同時に、非本来的な自己から本来的自己への自覚を含む。この現存在をみちびく自己了解が、ハイデッガーによって「実存的了解」と呼ばれるゆえんなのだ。
現存在の根本構造は「世界・内・存在」である。人間にとって、この世界から離れて自己自身のうちに閉じこもるべきすみかはなく、人間はすでに世界の中にある。
「に・ある」(内・存在)とは、空間的な意味ではなく、現存在が、現存在ならぬ存在者や自己ならぬ他の現存在と交渉をもつことを意味する。この「交渉」を基礎づける場が「世界」であり、「世界」とはたんに事物の総体でも人間の共同体でもなく、現存在が交渉する存在者の全体の仕方を意味する。
こうして、現存在の実存論的分析を、フッサールの現象学を援用して『存在と時間』において詳細に追求した。
ハイデッガーのいう現存在というのは、基本的に「共同存在」ということになる。
この当時、私は『スッタニパータ』(仏陀のことば:中村元訳、岩波文庫)を座右の書のように読んでいたが、その中に次のような言葉がある。
40 仲間の中におれば、休むのにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
69 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め(以上、第一 蛇の章、三 犀の角より)
紀元前400年前後の時代に成立している仏陀の瞑想・直観と、20世紀の現象学・実存哲学が、ほとんど同じ認識を示しているといることに驚きを禁じ得ない。
仏陀の思想は、当時のバラモン教的生き方である四住期、つまり……
学生期(がくしょうき)
家住期(かじゅうき)
林住期(りんじゅうき)
遊行期(ゆぎょうき)
の後半の時期に成立したものであり、終活的な色あいが深まっていくという背景があるかと思う。
日常的現存在は、本来的自己ではない在り方としての相互存在であり、<ひと>の平均性、公共性へと没入して、その本来的な自己存在可能としての自己自身からつねにすでに脱落して、<ひとの世>である共同世界へと<転落>している。
<転落>において、現存在はその本来的存在可能から<疎外>され、それは本来性からの<墜落>を意味する。
この非本来的な自己から本来的自己へ至る被投企的投企によって、「存在の明るみ」の内に立つこと、これこそがハイデッガーの実存である。
キルケゴールによって基礎づけられた、無限の断絶を生きるという不可能性の可能性としての実存の根源性は、ハイデッガーによって「存在の牧者」としての到達可能性のうちに神秘化され、もしくは祝聖化されている。
それは、ハイデッガーにおいては<存在>も<無>も、根源的全体者として絶対化されているからである。
ハイデッガーも、ヤスパースと同じく、存在という語に至高の超越的存在、包括的全体者もしくは神的な意味をもたせているのだ。
ここまでは<私>論の前段階として、踏まえておかねばならないだろう。
「サルトル……受難としての実存」に続く