谷川俊太郎、「私」について
『ユリイカ』(2008年4月号で谷川俊太郎が「私」について語っている。
(聞き手:和合亮一)
『マザーグース』を翻訳したあたりからアノニマスな、作者というのが問題にならないような詩を自分でも書きたいし、そういうものがやっぱり詩の本流ではないかということを考えてましたね。
anonymous というのは匿名性ということで、要するに「詠み人知らず」ですね。
たぶん身体に興味を持つようになって、「私」というものを見直したいということがひとつ……、
それから、僕は若い頃にジャック・プレヴェールに夢中で、プレヴェールのような、詩の中のわたくし=詩人自身というのではなく、詩の中に虚構を持ち込んで「私」を書きたい……ということを言ったら、
岩田宏が、プレヴェールは虚構がどうしたとかそんなケチなわたくし性じゃなくて、もっと巨大なわたくし性だって言ってくれた。それがすごい印象に残っていて……
自分の「私」がどこまで重層化して、どこまで器が大きくなるかというのを試したいという気持ちで『私』(2007年思潮社)っていう題名になったのかもしれません。
自分の多面性、私をどこまで深く広く拡張できるか、いかに自分がほかの人間になれるかみたいなことを詩の世界でだけれどもやってみたいという気持ちはたぶん隠れてたと思うんです。(世界の中の微細な力を信じて)
これは、先にあげた吉本隆明や入沢康夫、大岡信の主張に連なる見解だといえる。
荒川洋治も「もっと多くの自分を持て」と。
そして次に取り上げた鈴木志郎康の「極私的現代詩入門」も「私」意識の転換を呼びかけている。
いずれも「私」とは何か?とりわけ、作者としての「私」という存在のあり方を問題にしているのだ。
私は母によって生まれた私
「私」は言語によって生まれた私
どっちがほんとうの私なのか
「私」が突然泣き出すから
ほうじ茶にむせてしまった
谷川俊太郎詩集『私』から、「私」に会いに