最初の一行から、終わりのない世界へ(3)

 詩の言葉の出現を考えると、作者と作品との関係性も自ずから見えてくるものがあるだろう。

「言葉はわれわれの道具であるけれども、同時にわれわれの主体性そのものであり、かつまた、われわれであるところの無数の主体を包み生かしている広大な環境そのものであるという、その重層性にほかならなかった。この重層性は、言語記号の二要素、<表示するもの・表示されるもの>の重層・統一構造とも対比しているように思われる。
 ある限定された音と視覚的イメージの組み合わせ(<シニフィアン>の要素)によって、無限感をともなったある種の概念や情動(<シニフィエ>の要素)を、あたかも鑿岩機が鉱脈を掘りあてるように掘りあてる。だがこの関係は決して一方的なものではなく、われわれの内面(下意識、無意識の領域)からの呼び声が、いわば予感された「表示されるもの」(シニフィエ)として、具体的、物質的な上部構造である「表示するもの」(シニフィアン)を呼び寄せるという働きが、そこにはあるのだ」
大岡信『言葉の出現』より

 詩に顕れる言葉というものは、「作者」と「顕れた言葉」との双方的過程を内包している、という動的な構造を成しており、決して一回限りの固定的なものではないわけだね。

 その一方で、作者としての「私」もまた多層な関係性で成立している揺れ動く存在なのだ。世間的にみれば、「ぶれない人」というのは信頼のある人ということになるのだろうけれども、「ぶれない人」などというのは存在しないといってよい。
 強固な信念を持つということは、一つのことを金科玉条のごとく守っている石部金吉なのであり、あくまでも他人の側から見た印象に過ぎない。

 私という存在は
(1)生誕から今日まで関わった多数の人間関係の結節性(網の目)として存在していること。
(2)歴史的に形成され受け継がれてきている文化や社会習慣に染まった存在であること。
(3)顕在意識のみではなく、潜在意識や暗黙知・無意識をも内包する重層的存在であること。
(4)実生活とは離れた内観的あるいは反省状態の自己意識を本来の自己として仮定すること。
……など、いくつもの変数的要素が複合して人格を形成している。

 たとえば、相手によって自分という人間のキャラが確定する可塑性。
 好き合って一緒になった夫婦がいつしか憎悪しあう、という可変的関係性。
 自分の部屋の広さが何㎡か分からなくとも、何畳かは考えずとも分かる歴史的文化性。
 よく「魔がさした」というが、普段は下意識に潜んでいるハイド氏的要素……

 自我とは常に、現在の、自分が仮構した自己史の、最新版という性格をもっているのだ。

 変数としての私(作者)と、変数として顕れた言葉の関係は、必然的に固定的なものではありえなくなるであろう。

 入沢康夫は『校本・宮澤賢治全集』の編集者の一人として、校訂作業を進める中で……
「時間の軸に沿って移動し変化していく草稿それぞれが、その作品の真実であり、そうした変化の相において捉えられた全体が、その作品のありのままの姿なのだ」……と気づいたという。

 宮澤賢治の文学創造そのものの本質が《決定版》とか《決定稿》とかいった観念を拒否する特徴を持っている、と。

 今日のようにパソコンで詩を推敲していると、推敲の過程が残らないということになる。
 昔使っていた万年筆を探してみようかな!