最初の一行から、終わりのない世界へ(2)
前回の稿は
(1)詩における言葉の出現という問題と
(2)作者と作品との関係性
……という二つの問題を提示している。
もう少し詳しく考えてみるために、吉本隆明、入沢康夫、大岡信、御三方のディスクールを取り上げておきたい。
言語は音声や文字で表現されますが、音声とか文字はそれ自体としてみたら、空気の振動だとか活字になった記号だとかいうことで、それだけのものです。しかし人間の内的な意識のある表現だとして、あるいは文字に固定された記号としてみたら、言葉はある価値づけの対象となるといってよいでしょう。
言葉が価値の対象になれると申しましたが、この価値は言葉はある事柄を指し示し、それを伝えるという自然な機能に基づいていることはすぐに理解されます。けれどもこの言葉の自然な機能も、ある事がらを指し示し、それをたれかに伝えようという話し手や、書き手の意志との関連でかんがえはじめますと、自然な機能のほかの何かがつけ加わります。
この場合、言葉にはある事柄を指し示し、それを伝えようとする無意識の、あるいは意識されたモチーフがあるのですが、このモチーフや目的とはさしあたりかかわりない、ある普遍的な表出を実現しようとするものだということです。いいかえれば、言葉は<指し示し><伝える>という機能を実現するのに、いつも<指し示さない><伝えない>という別の機能の側面を発揮するということなのです。
はじめに対象を<指し示すこと><伝えること>のために使われた言葉といえど、そのうちに<指し示すこと><伝えること>としての言葉という側面からみることができるようになった。
その果てには意図的に、言葉を<としての>性格だけで使おうとする欲求が生まれてくる。つまり<指し示す>とか<伝える>とかいう用い方からできるだけ遠ざかったところで、ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使するようにする。その言葉は使用性を喪失するような使用法であり、また普遍的な等価であるような価値表現(言語)を求める言葉になります。(中略)
この課程は使用価値ではなく、価値そのものなんです。価値の自己増殖(自己表出)ということが自己目的です。決して使用価値といったものが第一義的にあるのではないと。
かくして、いったん価値それ自体が追求されるところでは、このような言葉の<概念>の水準のうえに浮かぶ普遍的な価値のうねりに転化してしまうのです。すべては言葉の上に浮遊するようにみえるという謎にみちた構図が、世界図にちかいものとなります
吉本隆明「言葉という思想」<幻想論の根底>より抜粋
入沢康夫は『詩の構造についての覚え書』の冒頭で「詩は表現ではない」と断言し、「作品の構成の要素は単語だけではない。個々の要素を持つ意味の重層性や潜在的情動力は、適切な構造の中にところを得て、初めて発揮される」と続ける。そして……
これまでのほとんどすべての詩は、「いかにして作者の想い(情緒・印象・感覚・思想等々)を述べるか」という地点で書かれてきたのであり、人生派、社会派から、一見逆説的にきこえるかもしらないがモダニストたちに至るまで、この呪縛は及んでいたのである。この結果、詩についてのさまざまな立場や主張、流派などの相違は、この面でせんじつめてみると、すべて「手段」の相違として受けとられてきていたことが判明する
……と述べている。
自分の想いを述べるために詩を書くのではないこと。
読者は詩人の個人的な想いを、直接的に作品の言葉に見いだそうとしてはならないこと。
詩全体の構造性の内に、表現されているものを掘り当ててて行くべきだ、と。
最後に、大岡信の言葉。
詩人は、自己の内面から噴出した言葉を、そのまま文字として定着するわけではなく、おびただしい記憶や影像の海の中を何回もくぐらせた挙句に、最もよい結合関係を示していると感じられる<表示するもの>(シニフィアン)と<表示されるもの>(シニフィエ)の統一体としての言語記号(シーニュ)を選びとっていく。
これは、いいかえるなら、一個人の個人的特殊性を通じて噴出する言葉を、一民族文化の下部構造としての言語体系の海にくりかえしくりかえし浸らせ、そこからよりよい言葉をひきあげてこようとする行為にほかならない。
言葉が日常の世界で果たしている功利的、常套句的、実用的役割を可能な限り剥ぎとって、「ものそのもの」としての言葉を純粋に洗い出し、そういう言葉によって詩を構成しようとする象徴主義の詩法、いわば、今いったような言葉がよび起こしてくる「虚の空間」を最も純粋に、最も大きなひろがりをもって、つまり無限性にむかって最も遠くまで、押しひろげようとするものにほかならなかった。すなわち、言葉を「もの」に還元するということは、単なる物質に還元するということとはまったく違う性質のもので、むしろ、虚の空間をより純粋によび起こすための、必要な還元作用にほかならない。
<言葉の錬金術>というランボーの表現の意味も、「詩をそれ以外のあらゆる本質から決定的に分離させる」という方式に約言できるであろう。(中略)
端的にいって、レトリック(修辞学的常套句)をしらみつぶしに抹殺し、言葉というものを、純粋な「もの」としての発生状態においてとらえようとする、一つの野性的な言語観こそ、「言葉の錬金術」という概念を生み出した当のものだったのだが、日本では、逆に、漠然とながら、「言葉の錬金術」は「新しいレトリックの創出」という方向において理解されていた傾向がみられる
大岡信 『言葉の出現』より
言語学的転回を経た今日の詩は、以上のような言語構造認識を基にスタートする、と……。