最初の一行から、終わりのない世界へ(1)

詩を書いていると、これでいいという完了感に達することはほとんどないといってよい。完成形にはほど遠いなという思いを払拭できない。

過去の作品を再読しても、決して完了することができないのだろう、という気持ちがよぎる。その都度、手を加えたくなるのだけれど、これは時間を経過して表現主体であるはずの私が変化したからということなのだろう。

いったい、表現というものはどのように始まり、どのように終わるのか?

結論から言ってしまうと、自然という規範を離脱した詩も絵画も同じようだなと思える。
始まりもなければ、終わりもない。
形としては始まりがあり、終わりもあるのだけれど、最初の一行あるいは一筆ははるか遠い以前から地続きで来ているはず。

ただ詩人にしても画家にしても、そういうことを決定づける定型的な明証性、あるいは判断の根拠となるようなものは全く与えられていない、と。

わたしのようにルーティンワークが苦手で、常に新しい世界、未知の世界に突き進んで行ってしまう心的風来坊にとっては、まさにそうだという気がします。

詩人の場合は、言葉ですからそれを考えていると、不意に、場所を選ばず脳裏に浮かんでくる。
アイデアとかは俗に馬上・枕上・厠上(ばじょう、ちんじょう、しじょう)とかいわれますが、無意識な行動をとっているときに現れやすいでしょうか。
現代ですと、車の運転中、明け方の半覚醒時、シャワーを浴びていたり、トイレの中とか。もちろん、歩いているときでもひらめきます。

現代絵画の場合でも、イメージは同じようにうかぶようです。

この場合、表現者は「豊穣なる混沌」を内に養っておくことが必要なのだと、バートランドラッセルが名言を残しています。
それに付け加えておきたいのは、その中から何を掬い出すのかという問題意識あるいは意図を明確にしなければ、最初のアイデアや言葉は浮かんでこない、ということです。

詩人にとっても、画家にとっても、最初の一行あるいは一筆は、まさに表現者の手にゆだねられている。その一撃によって一つの端緒が生まれ、次の一行あるいは一筆はその勢いをランディングするだろう。

現代絵画の巨匠であるジャン・パゼーヌは「二筆目が加えられると、すでに生きている画布が表現者を肯定したり否定したりしながら導き始める」と述べています。要するに、表現の方向性が決定づけられるということでしょう。

まっさらな原稿用紙あるいはディスプレー、そして画布というのは創造の始まりであり、終わりであり、表現者が抱いている深淵、あるいは<無意識な領域から湧き上がってくるつかの間の漂流物>を定着する鏡である、ということだ。

これは、人間の意識と対象との関係の本質的な構造ですね。
意識が対象を措定し、措定すると同時に措定せられる。
意識を視覚と言い換えれば、そのまま視覚芸術の話になるだろう。
さらに、言葉といいかえれば、そのまま言語芸術の話になるだろう。

非具象絵画の画家であるパゼーヌは「絵画作品がその存在を強めていくほど、(画家の表現行為に対する)その抵抗も増していく。思い出や感動を込めようとすればするほど、作品は我々を拒否する」と述懐している。

同様に、詩を書いていると、当初のイメージとは違う方向にどんどん進んで行ってしまうことが少なからずあります。それはそれで、全く別な一編の詩として成 立していく萌芽を持っていますので、タイトルを残して他のすべてをカット&ペーストでメモ帳に移して、ゼロから仕切り直しをするわけです。

表現あるいは創造行為というのはルーティンワークではないので、手慣れた手法・技術や表現世界に安住するわけにはいきません。
形体も運命も定まっていない未知の領域に向かって突入していく執念や狂気あるいは忍耐をもってそれを追求し続けるほかないので、表現そのものに終わりなどはない。あるのはひとえに精神的・体力的持続の限界だけ、といってよい。

谷川俊太郎は「締め切りがあるので、多少不満があっても出してしまう、ということはある。でも推敲していくと、もうこれは飽きちゃった、これ以上いじるのはめんどくせーや、というポイントがあるので、そこでやめにする」と述べています。これは現代の詩人の、率直な告白だとおもう。

ジャコメッティの場合は、ほとんど偏執狂といえるほど「制作物と自分の視覚がみているものとの違和感」を許せなかったようだ。
かれもまた、画廊との契約で期限を切られた作品を提出した時期もあった。

父からプロになるべく、やってみるように勧められ、ジャコメッティは二点の作品をJ.ビュシェ画廊に持って行き、作品はすぐに売れたのだが…
「あんなに大急ぎで作ったものを人々はどうして受け入れたりできるのだろう。…あんなくずを!」
…と、述懐している。本当に、妥協を知らないかのようです。

いつでも彼のアトリエの一角は、制作途中で破壊された未完作品の山が日々巨大な瓦礫の山になっていくのが常だった。

「作品が完成という日の目を見ることは決して必然的なことではない」というバレリーの言葉のように、ジャコメッティは「シジフォスの神話」にも似た、創造と破壊の繰り返しを生涯貫いて生を全うした、とメルセデス・マッターは述懐している。

私はこういう言葉を引用して、自分の怠慢のいいわけに利用してしまうのだけれども、言葉に向き合おうとすればするほど、絵とか音楽とか自分とは違う世界に向かってしまうというのが本当のところだ。苦しいことから逃げてしまうのだと、いってよい。

パゼーヌはいう。
「出発点では実にやさしいこの自然、このはっきりした内的世界も、時がたつにつれて画家から遠ざかっていく。そしてやがて描くという行為は、もはや<絶えず離れていき、しだいに見分け難くなっていく獲物に対する>気の狂ったような盲目の追跡でしかなくなるだろう」と。

表現者は、表現しているものに追い詰められながら、絶えず生成・消滅・再生の相貌を見せる空間あるいは世界を、追い詰めていかねば表現者たり得ないし、生きているとさえ言えないのだろう。

凡庸な私は、ほとんどめまいにおそわれつつ、自分の人生の終わりという締め切りにせかされるように自分にムチをいれるのだけども、心が躍動しない。

自分を動かす情熱のようなものは何かといえば、(自分の五感に触れる)現実世界に感じる違和感の意味を明らかにして再認識していく達成感、のようなものだろうか。
それを、ささやかながら表現していくことが、私が生きていく意味だといってよい。
これは、言葉を変えれば現実世界によって追いつめられていく、ということになるのだろう。

それを切り返して、現実世界を認識的に再構築していこうとするのだけれど、終わりのないせめぎ合いなのだねェ、これが…。

 

初稿(2009年12月20日)
改訂(2019年05月08日)