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2013年5月24日

臨詩「祖師谷」について

荒川洋治「存置」をモデルに、祖師という語から連想される(コノテーションの)メタ文脈を構成しました。資料として宮武外骨(みやたけ がいこつ)の『猥褻廃語辞彙』を利用させていただきました。
 

 わたしの師たちは「不條理ゆえにわれ信ず」という世界の方々ばかりでして、「祖師谷」のようなことはありません。

 詩の中の師には、特定のモデルはいません、とここでお断りをしておく必要があるでしょう。

      臨詩  「 祖師ヶ谷

 さて、注釈です。

・「祖師谷」...祖師との溝、というコノテーション。

 この詩の話者は、近代的自我の持ち主のようです。
 初めは五体倒置礼のような師に対する礼を礼儀としてするのですが、徒弟制度世界のグルと、近代合理主義的自我の<わたし>との間には深い溝があるわけです。

 この深い溝を最初は「渓谷」としたのですが、手直しの時<「透谷>とした。谷が深まる感じ。

 透谷とは、数寄屋橋(透き谷橋)の言いかえですから、橋を架けること、つまり歩み寄ることです。
 通れない橋は、日光の「神橋」みたいなもの。
 <干拓>とは、文字通り、溝を埋めること。橋をかけるか、埋め立てをするか、ということです。

・<こころ>も<棗>も<半跏思惟>も夏目漱石の喩だね。
 半跏思惟は、日常の煩わしいことを煩悶する姿だ。
 瞑想は結跏趺坐であり、師の姿はこちらになる。

・<瑠璃光如来>とは、ずばり正規表現できないので、「火処」とだけ付記しておく。
・<水遊び場>これは、↑↓(上・下)を包含する、係り結びの言葉らしい。
・<猫の水呑む音>これは、<性の往復運動>の音らしい。
・<放下>、いっさいは空であると言いきってしまえば詩は書けない。という大義名分の陰に隠れて、<私>という話者は<舌も洗う>と。「なんして、かな?」...猥褻語的喩を「うそぶいて」いる。

 以上、実に下らない「臨詩」であった。次回は、「下らない」とは言えない「臨詩」をアップする。

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このページは、小林由典が2013年5月24日 17:17に書いた記事です。

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