先日テレビを見ていたら、現在の大きな社会問題として、
弱者犠牲の上に成り立っている社会のあり方が問い直されている、という発言を聞いた。
今なぜそれが問題になっているかといえば、民主主義が大衆に浸透してきた結果なのだと。
とても一回では書ききれませんので、引き続き上野画伯の絵について、感想を述べたい。
前回の絵を見ているうちに、鑑賞者の自由なインプレッションに委せる度合いの大きい現代絵画というのは、ある意味でキュービズムとかフォービズムとか、イズムと名のつくあるいはつかない主義・主張とは対照的に、個性的ではあるけれど思いがけないほど謙虚な表現なのではないか、と改めて感じるものがある。
知り合いの上野さんのご主人が画家であることは知っていましたけれど、どういう絵を描く方なのかは識らずにいました。
彼女からコメントの投稿をいただき、Picasa のページをのぞき、たいへん面白い絵であることを発見しました。面白い!
どう面白いのかといえば、錯覚視覚効果あるいは自由連想であり、面白くて深いものがある。
よい感覚とわるい感覚...木原孝一
よい言葉とわるい言葉...黒田三郎
それぞれ、別ページで論じられているが、簡単には扱うことが難しいので、概要だけを取り上げておきたい。
悪いリズムなどというのはすでに有名無実である。
正確には「リズム」があるとは言えない状態であるからだ、
...と、山本太郎は断じる。
今回も清岡卓行の解説となる。
私はアレゴリーについてよりも、清岡の批評にわが意を得たりと感じるところがあるので、それを取り上げたいわけだね。それで、記事そのものは、初学者に参考になるだろうと、考えてもいるのだ。
象徴とは、ある魂の状態と外界の何ものかを投影・反響させ合って、
そこに一種の親密な合体感をかもしだすことで、
その交錯し合った関係、照応(コレスポンダンス)と呼ばれている効果は、音楽に一番近いといえる、
...と清岡卓行はいう。
なぜ、このような方法論が求められたのかは、歴史的な理解や日欧の差異、
さらには文学運動についての考察も必要であり、雑誌記事の範囲を超えると。
この項目の担当は関根弘だけれど、適任とは言いがたいかと思う。
前衛芸術をリードしてきた関根にとって、比喩ということはあまり重要な詩の要素ではないからだ。
彼は語る。「詩を書く場合に、比喩が不可欠なものであるかといえば、必ずしもそうではない。
どのような心の世界を詩と考えるかによって、動員される言葉の種類が決まるのだ。
たとえば、シュルレアリスムの造形世界にあっては、比喩はそれほど重要な意味を持たない」と。
前回の続きとなる。この項目担当者である木原孝一はわるいイメジを三つあげている。
・最もわるいイメジ...不精確なイメジ
・次にわるいイメジ...古い観念をそのまま持っている場合
・その次にわるい...イメジのためのイメジ
時々、そうする必要を感じて啓蒙的なことを書いたりするのだけれど、そのようなものを書くときはできる限りバランスをとるようにしている。記事自体のバランスということもあるけれど、ある種の風潮の横行に対しては、徹底的に批判することでパラダイムの中におけるバランスをとるということもある。デイベート的な立場であって本意でない場合もあるけれど、それが啓蒙ということだから。