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 詩人が言葉を書くトポスは内面世界と外面世界との接触する臨界であり、今流行りの言葉でいえば現代詩的言語の「絶対領域」なのだね。思想的にいえば個的観念世界と共同規範世界の逆立構造あるいは「ねじれ」の場であり、何度も引用するけれど、吉本隆明が「魂を千里移行する」と表現した乖離の構造的風景だ。
 「純粋処女プアプア」ではなく、「売春処女プアプア」であった。
 思い描いていたイメージも全然違っていたのには、自分自身で驚いている。
 なぜこんな読み違いをしていたのだろうか?
 言語感覚といっても範囲が広いので、過不足なく定義することはなかなか容易ではない。
 ここは極私的に話を進めよう。
 たとえば、私がひとの詩を読んで違和感を感じ、指摘する場合、それは正誤の問題というよりもその人の言語感覚の問題と考えている場合の方が多い。これは、その人の言葉のキャリアに係わってくるので、指摘してもどうにもならないという感慨を感じてしまうのだね。


 「何故こうも表現しようと意図して、いわゆる作品というものに至れない人々がたくさんいるのか?」...
 という答えは、このブログの各所で提示しているはずだけど、漠然と読み過ごしている人は気づいていないかもしれないと思う。
 さて、鈴木志郎康は何が問題だと、いっているのだろうか?

 
 「知識のつみかさねからではなく、ただ書きたいように書きはじめた初心者の書いたものへの、鈴木(志郎康)さんの視線のやさしさは、ぼくには、とても真似できるものではない」(季刊「midnight press」1998年秋号)という福間健二のことばに誘われて、志郎康さんを読んでみた。
 荒川洋治『娼婦論』から引用した詩に関して、パロディ詩を作ってみました。
 パロディというと語弊があるかもしれませんが、書道でいえば「臨書」、絵画でいえば「模写」習作。ただの「お習字」ではないし、ただの「模写」でもない。
 積ん読の本を、少し腰を据えて読まねばならないようなので、しばらく記事を書く時間がなくなります。それで、近所の風景を撮影してきたものでも、アップしておきましょう。
 システム更新に伴い、過去記事がなくなり、アクセス解析を新たに設定しました。

 震災から一年が過ぎたというのに、何も書けないでいる。
 書けないなら、書けないなりに、書かねばならないのだろう。
 ということで、ノンしゃらん系のものを無理に書いてみた。
 よい感覚とわるい感覚...木原孝一
 よい言葉とわるい言葉...黒田三郎
 それぞれ、別ページで論じられているが、簡単には扱うことが難しいので、概要だけを取り上げておきたい。
 悪いリズムなどというのはすでに有名無実である。
 正確には「リズム」があるとは言えない状態であるからだ、
 ...と、山本太郎は断じる。


 今回も清岡卓行の解説となる。
 私はアレゴリーについてよりも、清岡の批評にわが意を得たりと感じるところがあるので、それを取り上げたいわけだね。それで、記事そのものは、初学者に参考になるだろうと、考えてもいるのだ。


 象徴とは、ある魂の状態と外界の何ものかを投影・反響させ合って、
 そこに一種の親密な合体感をかもしだすことで、
 その交錯し合った関係、照応(コレスポンダンス)と呼ばれている効果は、音楽に一番近いといえる、
 ...と清岡卓行はいう。
 なぜ、このような方法論が求められたのかは、歴史的な理解や日欧の差異、
 さらには文学運動についての考察も必要であり、雑誌記事の範囲を超えると。


 この項目の担当は関根弘だけれど、適任とは言いがたいかと思う。
 前衛芸術をリードしてきた関根にとって、比喩ということはあまり重要な詩の要素ではないからだ。
 彼は語る。「詩を書く場合に、比喩が不可欠なものであるかといえば、必ずしもそうではない。
 どのような心の世界を詩と考えるかによって、動員される言葉の種類が決まるのだ。
 たとえば、シュルレアリスムの造形世界にあっては、比喩はそれほど重要な意味を持たない」と。


 前回の続きとなる。この項目担当者である木原孝一はわるいイメジを三つあげている。
・最もわるいイメジ...不精確なイメジ
・次にわるいイメジ...古い観念をそのまま持っている場合
・その次にわるい...イメジのためのイメジ
 数日まえ、「世間的」には「変」な夢をみた。「私」的には意味があるはずだけれど。
 朝方、腰痛を覚えながらうとうとしていた。夢の中で、4、5歳くらいの男の子がひとり、私の足元にまとわりつくようにして、こう言った。「神様が、あなたのウ○コを買いに来ます!」 だってさ。

 どうも中途半端な気がして、自分のやるべきことに取りかかれない。日本語の様々な可能性について、現在の第一人者ともいえる野村と四元の試みを、リストアップして、ガイダンスとしておきたい。


 長い間詩から遠ざかっていた私は、一昨年に再開するに当たってことば遊びから始めることにした。
 スクラップ&ビルド、つまり内的言語の立脚点を、更地にしてから始めよう、と。
 最初にやったのは、過去に書いたものを解体すること。
 次に手をつけたのは伝統的詩歌のことば遊びをまねしてみること。
 その次は近代以降の詩歌の検討、その他外国語の取り込み、など。

 野村喜和夫はバイリンガルや数カ国語をしゃべる外国人との交流から、日本語を唯一絶対のものとしている自分の立場はかえって特殊である、と感じたようだ。けれども、曖昧語だとか何とか言われる日本語だけれども、母語を脱出することなんてできないのは、前回述べたとおり。
 彼は、既知の日本語が自分を通過すると未知な言語に変わる、という言語表現を追求することに...。

 野村喜和夫の『移動と/律動と/眩暈と』を積ん読のままにしておいてはいけないので、良い機会だから少しだけ取り上げておこう。
 これまで、ことばの意味性をめぐる詩の経験(=歴史)に偏って論じてきました。
 野村喜和夫は、その逆に音声や形象といった面(シニフィアン)にこだわりをもつ詩人である。


 帝政ロシア末期の詩人ロープシンは、文芸作品としての詩を書いた人ではない。
 運命に翻弄され、旧約聖書「ヨハネの黙示録」に啓示をうけたテロリスト、サヴィンコフその人が、
 もう一人の自分として己の魂を回復するために書き残した懺悔の言葉、それがこの詩集である。

 エセーニン詩集から、ロシアの詩人というヤツは!という部分をことさら選んで紹介しておきます。
 大酒飲みで、しょっちゅう社会規範を踏み外す狼藉をはたらくけれど、どこか純朴で、奥深いところがある。
 默説法というレトリックの用法について、古いパラダイムで多用されてきた(手品の)ネタ隠し技法だなという、ある種のうさんくささをぬぐいきれない。なにやら意味ありげな語彙を並べて、さもその裏に深い意味でもあるかのごとく思わせるテクニックのたぐいだ、と。
 どうやら私は歌謡曲の歌詞を読み過ぎて、セクシャルな裏イメージをチラ見えさせるテクニックに飽食してしまったのかもしれない。
 はたまた、「闇夜の晩もあるんだぜ」というやくざのセリフもまた、脅迫表現でない脅迫という默説法ではないか...。
 飯島耕一の「日は過ぎ去って」は、詩的「默説法」(レティサンス)への反抗として、書かれたものだという。

 我が国では、科学的といえばきわめて客観的な方法であるということと同義語のように扱われている。
 たとえば自然主義文学は、科学的方法と思考をもって、人生や人間の行為のもろもろをえぐり出していこうということで、それが客観性を獲得していくのだという素朴な科学信仰といえるものが前提となっている。けれども、科学的ということと客観的ということの間には、認識論的な深淵が横たわっているのだ。

 本来ならばマイケル・ポラニー「暗黙知の次元」の続きを載せるべきですが、読み終わっていないもので、論旨からいって吉本隆明の「言葉という思想」を是非取り上げておくべきかと、予定を変更させていただく。
 前回は変な切り分けをしてしまいました。過去に読んだものの出典を探すのは、デジタルデータではない本探しになるため手間がかかります。
 今回は(6) (8) [ 谷川俊太郎 ]と、(7) [ 鈴木志郎康 ]の言葉を取り上げてみたい。

 前回の「現代詩人のことば」はググっても載っていない書籍からの出題でしたので、一応出典を解説しておくべきかと思います。
 (1) 谷川俊太郎 (2) 大岡 信 (3)鈴木志郎康  (4)安東次男  (5) 長谷川龍生
 (6)谷川俊太郎  (7) 鈴木志郎康 (8)谷川俊太郎  (9) 野村喜和夫 (10)谷川俊太郎


『近代詩物語』という古書のはしがきに、...

 「新体詩運動の発生以後、近代詩から現代詩へ、さらに戦後詩へと詩の質的転換をうながして来たものは、詩的精神の自由と深化を求め、無限の可能性に挑みつづけてきた詩的情熱にほかならない。」

 ...とある。
 先ほど震災関連の特集をNHKテレビでやっていて、岩手県宮古市の巨大堤防が崩壊した様子を撮していました。世界にも例のない堅牢強固な巨大堤防として、国内はおろか世界各国から防災先進地区として知られていた田老(たろう)地区の惨状...
 このたびの東日本大震災には、言葉も出ない。
 古い我が家は瓦葺きの重い屋根をもち、激しい揺れに倒壊するのではないかと、家の外で揺れがおさまるのを待つほかすべがない。今も、車を家から離して駐車している状態...。
 下手な言葉よりも支援の行動が求められるのだろうけれど、語るしか能のない者は、これをみずからの災害として深く受け止めるばかりだ。


 同音異義語が多い日本語では、ひらがなのことばは複数のことばのどれなのか、作者にしか分からないものがある。
 それらのことば群も、語源を辿っていくと、元はひとつだったりする。
 たとえ漢字で記してあっても、音韻の連想から別のことばの意味を表象することも少なくない。
 

 世の中、「ざこ」と呼ぶほかない人間は、どうしてもいますからね、と合評会で評されました。
 大人の世界の話ではありません。
 ざこということばの意味も知らない子供たちをざこキャラと分類し、学園祭のシナリオに印刷することは、まったく意味が違うと思う。

 ことばは存在を措定する。
 措定することにより、物象化への過程をたどる。
 浅薄な決めつけを旨とするレッテル主義を、私はラベルとかキルケ語と言っているが、これもそういう類のものなのだろう。

 中国雲南省のトンパでは、納西(なし)族がトンパ文字を今でも祭祀などで使っています。
 漢字系ではなく、東ビルマ言語系らしいですが、きちんと文法もあるし、読みもある。
 不倫についての詩を書きたかったのですが、夫婦喧嘩はありますが不倫という表現はないようです。
 ということは、現代はいざしらず、昔は不倫という概念も、その実態もこの部族にはなかったということでしょうか。
 言語学者に尋ねてみたいものです。

 詩人とか画家さんにはインターネットを頭から否定的に見る人が少なくない。
 谷川俊太郎がフローの言葉とストックの言葉として、詩はストックの言葉だと書いた功罪なのかと思う。
 けれどもこの人は頭が固くはないので、全てがフローの言葉と化する中で、詩の言葉が影響を受けないはずはないということを言っているのかと読むべきだろう。

 『相聞』を読んでから、にわかに短歌に興味をいだいてしまった。ほんとうに「柄にもなく」なのだけど。
 学生時代、短歌をやっている後輩がいて岡井隆の本を貸してくれたことがありましたけれど、結局読まずに半年後に返してしまった記憶があるだけ。


 今朝、庭先で変なものを発見しました。羽毛のようなふわふわしたもの。上から見ると、カッパのカツラとでもいいたくなる綿毛。
 この絵画と詩のコラボレーションは、いわゆる詩画集のような両者の調和を目指すものではありません。
 お互い異なる世界で作品を作っている者として、相手の表現からどのようなインプレッションを受け、イメージが喚起され、自らの表現として定着し得るかというという試みだと受け取っていただければと思う。

 
 ネパールのポカラから間近に見えるマチャプチャレは魚のしっぽ、という意味だ。
 子どもの頃から一度は行ってみたいと思っていたスイスのマッターホルン(標高4478m)に似た独立峰で、標高は6993メートル。
 ひときわ雄大な山ですね。

 「スッタ・フリダーヤ」にたびたび出てくるBanyan(バニヤン、バンヤン)樹をご存じない方は、何ともイメージが湧きにくいかと思いますので、参考イメージをアップしておきます。
 気根というのは、枝から地面に向かって伸びる根で、地面に達すると根を張り広げ地上部は幹のように成長していく。

 ベンガルボダイジュ/ガジュマル(クワ科、イチジク属)
 ボダイジュ/セイヨウボダイジュ(シナノキ科、シナノキ属)
 画家の友人で、伊藤雄人という非具象作家がいます。

 この十数年、美術展の招待状をいただき、不義理をすることも多かったのですが、出かけた時には美術館の休憩場で印象をメモし、再度確認してはメモを書き足し、送らせて頂いておりました。

 その伊藤画伯から、画集を出そうと思うのでジュガルバンディーをやりませんかという申し出を受けました。ジュガルバンディーとはインド音楽の掛け合いのことです。


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