非具象絵画と非意味詩と(1)

何らかの表現ではなく、それ自体である表現...という点において、両者は通底しているのだろう。そこでは解釈は重要ではなく、作品により沿って経験することが必須のこととなるはずだ。

 上野知代子さんのコメントに応えようと「インザブルー」を検索したところ、なんと宇都宮の画廊の名前だったようですね。驚いたことに、私は幼児期から子ども時代を、この界隈の家で過ごしたのだけれど、いまはどんな見知らぬ町並みになっているのだろうか。

 案内図の右下にあるミネ幼稚園は私が通った園で、当時は峰保育園といっていたかと記憶している。「現象学的言語論の再定位(1) 概論」で寸描した保育園とは、このミネ幼稚園で、幼児の私が大人の持つドクサとぶつかり合っていた象徴の地だといってよい。その後、転居のために退園するに際して保育園の先生は私の母に、「よしのりちゃんは、よい方に育ったらすごい人になるでしょうけど、悪い方に育ったらとんでもない人になる」と、ラデイカルな私の性格と行動に手こずらされたことを語ったという。今でも、怒りをもって振り返る「遠い記憶の地」だといってよい。

 ところで、上野在森さんの絵ですが、Picasa ウェブ アルバム・上野知代子さんのギャラリーをあちこち探したのですが、どの絵が「インザブルー展」に出品したものなのか、説明が見つからず、確認できませんでした。

 ひとつ分かったことは、やはり大方の例に漏れず具象絵画から抽象絵画へとシフトしていった、という経歴ですね。このような場合、初期の絵を見るとその後の傾向が見えてくるように思う。

 端的に言ってしまえば、事物の輪郭を比較的明瞭に表すタイプの画家はフォルムに関心が強く、その逆に事物をマスとして捉え、線ではなく点描系で表すタイプの画家はコンポジションの要素に興味を持っている、という傾向があると考えられることだね。。

 ......と書いてから、2ヶ月ちかくが過ぎてしまった。グアテマラを中心に中南米を旅していた友人が日本での絵画制作拠点を探していたので、我が家の離れ(これは私の仕事場と戸襖で仕切られた6畳ほどの洋間)を提供したのですが......、生活していける台所設備が整ってはおらず、増築未完のままであった台所を使えるように工事をしていたためです。

 この工事とともに、私の仕事場を本宅に移すために、自分の部屋に放置していた大量のビジネス書や趣味の本を資源ゴミとして処分して、不要な家具を処分し、本棚を3連結して壁一面を書棚に改装しました。2ヶ月たったいま、ようやくわたし自身の仕事環境がいちおう整ってきました。

 さてと、Picasa ウェブ アルバムの説明文が追加されて、判別がつくようになりました。
 上野在森さんは様々な表現方法に挑戦してこられたようで、その探求の意欲に対してたいへん共感を覚える。たとえば、次の絵について......。

 P5150650.JPG この絵はアラベスク的なリズム感をもつ背景に、どっしりとしたマテリアル感をもつレリーフのようなフォルムが描かれていますね。

 この背景部分は上野在森さんの絵の基調ともいえるもので、ロジェ・ビジュールの類アラベスク表現に通じるものがあり、ある種の躍動感をもっているだろう。

 それに対し、陶器のような質感をもつレリーフのような中央のフォルムはホアン・ミロの系譜に連なるものかと思える。マテリアルの質感が目につくけれども、このフォルムも何かしら象徴的なものを感じるのではないだろうか。作者にはそのような意図はないのかもしれないが......。

 それで、構成的にはジャン・フォートリエの「構成」シリーズが連想される、という感じだね...。

 要素に分解すればそういう印象ですが、全体としてみれば上野在森さんのフォルム系の試みと、アラベスク的点描系の基調とが過不足なく融合して、完成度の高い到達点を示しているように思える。 

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(左)

フォルム系作品

(右)

アラベスク系作品


 
 
 
 
 
 
 

 先に挙げたフォートリエは、伝統的油絵には見られないマチエールの物質感を援用して人間の苦悶の表情を浮き彫りにしたと評されているが、この絵にはそのような表情的な要素は希薄だね。

 あえてこの絵のレリーフ様な部分を人の顔に見立てるならば、下部は黒い部分が多いのに対し、頭頂部に当たるところの背景に赤みが多く、前頭葉の付近から熱を発しているというイメジを得るだろう。つまり、感情的な興奮あるいは怒りのような若干熱くなっている印象だと。

 

 ただし、非具象絵画は具象画のように現実の事象や物とのアナロジーから糸をたぐるような理解の手がかりは得られず、作品そのものの色彩や形(点や線、面)、筆やコテの痕跡と勢い、といった作品それ自体の表れを観取する他ない。ということは、写真で得られるデータはあまりにも少なく、やはり実物を見ないと十分な鑑賞はできないという限界が具象画よりも大きくたちふさがるだろう。

 表現者と鑑賞者と、両者の共通感覚が前提とされない非具象絵画では、絵画それ自体を直接的に見ていくしかないというジレンマを、作者も鑑賞者も痛感するはず。

 次は、非意味詩に視点を移して考えてみたい。(2014-07-14~08-10)

「非具象絵画と非意味詩と(2)」につづく

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このページは、小林由典が2014年8月10日 12:22に書いた記事です。

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