現在詩へのアプローチ(2-1) 瀬尾育生「背後の笑い」

現代詩という定義ともその歴史ともあまり関係がない、と吉本隆明が規定した「若い現代詩」群...。けれども、ポストモダンを担った現代詩群は個々人の詩の世界で詩の本質に迫る苦戦を強いられていた。

 瀬尾育生『あたらしい手の種族』......詩論1990-96はこの辺の情況を通過したものの一人として論じている。 「通じない言葉」のために 詩時評1992、から。

 詩はどのようにも書かれうる、ということは現在でもなお、もっと恐ろしいことだと私は思う。私たちは、どんなミニマムなものであれ、書かれる詩の原理から現に書かれている詩について判断を下すということが可能な場所にはいないのだ。

 何を今さら、などと言ってはいけない。
 とくに後半部については、今日でも全くあずかり知らない「終わっている詩」が、地方文化詩のほとんどを占めているのだから。つまり、70年代半ばから80年代前半に起こった現代詩の大きな曲がり角をどのような形であれ通過していない、否その湾曲すら知らずにいる詩人たちの作品といってよい。

 もっとはっきり言えば、「詩の書き方」という技法が現代詩の黎明期から今日まで、自明の如くに保持されて、今日でも健在であると信じている文化的痴呆症の存在ということだね。昔のことはけっこう覚えているのに、昨今の情況には疎いのが特徴だといってよい。。

 
 それでは、「現代詩の大きな曲がり角」とはどのようなことだったのか、改めて確認しておきたい。
 これは「大きな物語」の終焉というなかば枕詞(まくらことば)となった事象から検討していく必要がある。

 瀬尾育生『われわれ自身である寓意』-詩は死んだ、詩作せよ <昭和>のクリティック

 この本に収められた記事は1987年から1990年までのものであり、1990年は平成2年ですから、ほぼ昭和時代に書かれたものといってよい。

 非人称変化」  詩的話法について

 2 背後の笑い
 1970年代から80年代にかけて大きく湾曲していった詩の言葉の変容について、直感的でとても単純にいえることがひとつある。それは詩の言葉に、巨大な声が加担しなくなった、ということだ。
 このことは即物的な事実としてさりげなく語られる必要がある。

 正確に言えば言葉が世界のうねりや揺動を意味のなかにとらえられなくなったとき、そのうねりや揺動は意味の外へ出て差異のないひとつの巨大な声として言葉を取り囲むようになった。

 E.Canetti
 それ以来、無数の異語に声として包囲されているカネッティの姿がアクチュアルなイメージを結ぶようになったのだ。

 

 この記述の前に、瀬尾はカネッティの紀行文である『マラケシュの声』所収「盲人の声」から、10行ほど引用をしている。
 流浪ユダヤ人であるカネッティはヨーロッパ圏でのマルチリンガルではあったけれど、ポルトガルと海峡を挟んだ北アフリカのモロッコの首都であるマラケシュでは、まったく周囲の言葉が理解できなかった。
 

 そこには、われわれの内部において初めて意味が生ずるような、さまざまな出来事や光景や音があった。それらは言葉によって拾いあげられることも刈りこまれることもなかった。それらは言葉の域を超え、言葉よりも深みがあって複雑である。(中略)

 言語のなかには何があるのだろうか?

 言語は何を蔽っているのであろうか?

 言語はわれわれから何を奪い去るのであろうか?

 わたしはモロッコで過ごした数週間というものアラビア語もベルベル語も敢えて習得しなかった。わたしはなじみのない、さまざまな叫び声の迫力をいささかも減じたくなかったのである。

 わたしは音自身の欲するままに、音そのものによって摑まれたかったし、不十分かつ不自然な知識によってそれをいささかも弱めたくなかったのである。
 

 未知の外国語圏における旅、というなら、わたしの「インド・ネパール精神世界の旅」も同様だろう。右手にはボールペン、左手にはカメラという「報道陣」スタイルで旅をしたのに、言葉にならず、写真も撮れないという現実に、ただ「見る人」になりきってしまったのだが。

 瀬尾はこの事態を「もはや声の量として聴覚のなかにとらえるしかない言葉たちの国を彷徨する旅」と見る。

 カネッティが目の前にしているのはひとつの社会を満たしている言葉のすべてがひとつの量としてあらわれる声のホログラフィーだ。だが彼はこの声の根源性、原初性にひきよせられて共同体の底部をたずねる神秘的な旅をはじめるのではない。彼は声の量の上を漂うちいさなひとつの方舟のようなものになる。彼はこの声が語るものに対し、翻訳者になることもナレーターになることもできない。彼はただ聴くものになる。あるいは一本の耳の管になって、それに声を送り届ける声の器官を探し求めている。

 マラケシュの声を前にしたカネッティ。これはいまわれわれが詩を考えるときのひとつのモデル、ひとつの寓話となりうるようなイメージだ。

 * ホログラフィー=3D映像。どの部分をとっても、全体性の情報を保持しているのが特徴とされる。

現在詩へのアプローチ(2-2) 」につづく

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このページは、小林由典が2014年5月12日 23:48に書いた記事です。

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