現象学的言語論の再定位(8)現象学の認識方法

現象学的還元とは認識過程における<対象>と<現象>の関係を、自然主義的に「原因」と「結果」とせず、<現象>から<対象>の存在を認受する条件を検討する手続きだ。

 言語論の本題に早く入ろうとしたために、現象学の方法について説明不足があり、理解しにくいところもあったかと思う。

 言語モデルの試みⅠを補足する若干の説明を付記しておきたい。詩を書く人にとって知っておくべき現象学の知識とは、「現象学的還元」ということだろう。

 言語モデルの試み(1)では簡単に通過してしまったので、もう少し詳しく説明しておこう。

 現象学的還元とは...
 (1) 対象=事物の客観的存在を前提とするのではなく、
 (2) その現象から「存在の確信」の条件を明確にすること、......である。

  竹田青嗣はリンゴを例に次のように説明している。

 「たとえば、ふつうわれわれは眼前のリンゴを目にして、「いま目の前にリンゴが存在するので、自分にこれこれのリンゴの像が見える」と考える。

 上の文は、その前段階があるだろう。日常的に考えるなら「リンゴがある」というように、現象と実在を同一視しているはずだ。この自然的認識を分析してみると、「リンゴがあるから、見える」という、「原因と結果」の思考習慣に基づいていることが見いだせる。

 現象学が現象学と命名されているのは、この場合「現象」が現れているがゆえに、リンゴが現実に存在していることを疑い得ないと見なすと、自然的認識を逆転させて考えるからなのだ。

 つまり、「像の現象」を原因として、「事物の存在確信(了解)」を結果と考える。ここで重要なことは、対象(=事物)の存在を客観的事実として(あるいは対象の客観存在を)前提にせずに、われわれがこれらの対象・事物・事態についての存在あるいは意味の「確信」(了解)をもつのは、どのような条件と構造においてなのか、と常に問うことである。

 以上のように考えることはいっけん「ひねくれた面倒くさい」考え方のように感じられるかもしれないのだが、実は日常生活でも当たり前に行っていることなのだね。

 たとえば、いつものことなのだが、朝車に乗って前を見ると、フロントのウインドーグラスに泥足の足跡がいつも付いている。それを見て、我が家の猫(尻尾が左巻きなのでエルと名付けた)が車の屋根に登ったな、と考える。

 このように痕跡(=現象)から、事態を導き出すというのは、名探偵コナンでなくとも、交通事故の鑑識だとか、事件捜査などは当たり前のことだろう。
 ニュートンはリンゴの落ちるのをみて、引力の存在というものを突き止めたけど、凡人(=自然的感性の持ち主)は、リンゴが落ちる(からリンゴは落ちる)、というしょうもない同語反復のような「原因・結果」の同一視で納得している、ということなのだね。

 川が流れる、という自然的感性の庶民の中にあって、「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」と現象から、事態の本質をみた鴨長明は歴史に残る随筆家になったのだ。その点、自然的感性で詩を書いている詩作者は大衆意識に埋没するしかないということになるだろう。

 このように、自然(主義)的感性を逆転させる現象学的な認識方法は(哲学的)思考の基本であるが、近代以降の知性からすれば不自然なところも無理なところもなく、きわめてオーソドックスなものだといえる。逆に、あまりにもオーソドックスで妥当な方法なので、確固とした文学理論のない「印象批評だ」と新しい物好きの批評家には難癖をつけられるかと思う。

 けれども、ある種の解釈学とか西洋の文学理論を振りかざした批評というものは、その理論に都合のよいようにあるいはそういう面だけを取り上げて、自分の土俵で解釈しているのだ、といってよい。それを、評論家は「切り口が新鮮だ」として評価する、ということになる。

 改めて確認しておこう。

 現象学的認識の方法を「確信(認受)成立の条件の解明」という本質性においてとらえるならば、「純粋自我」(=超越論的自我)という概念は、けっしてデリダが曲解したような「厳密な認識」を可能にする絶対的起源とか絶対的根拠などというものを目指したものでも、意味するものでもない、ということなのだ。

 「純粋自我」とは、それぞれの「現象とその感受」経験における「認受成立」の条件を問うという動機によって導入される、対象(=事物・事象・事態)と認識の因果関係性の「脱ドクサ」的見方への転位を意味するものだ、と考えるべきものである。

 哲学史的に見るならば、現象学における「純粋自我」の概念は、カントが定位した「純粋統覚」のような論理上の理念ではなく、その限界性(絶対的な客観認識は不可能であること)を踏まえて、より確実性の高い認識が成立するための条件を解明することを志向して生まれたものなのだ。

 フッサール現象学はカント認識論の限界を知り尽くして、非カント的認識論を展開したのであって、これをカント的「純粋統覚」を踏襲した純粋理念だと<解釈>するデリダの批判は重大な誤解というより、脱構築の文脈に引き込むための牽強付会なのだといってよいだろう。

 いずれにしても、現象学的認識をふまえた「状況コンテクスト」と広義の「言語コンテクスト」という、意味付与を辿る手続きは、「意味」の認受において実践的で重要な、そして誠実な方法だといえよう。そういう要素が欠落した記号論的評論家に対して、詩人である谷川俊太郎は異議を申し立てたわけだね。 (「メランコリーの川下り」参照)

 記号論的な方法においてさえ、「言語コンテクスト」のプロセスがなければ、「意味」は決して必要かつ十分にはとらえきれるものではない。
 以前、入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(2)」の中で、岩成達也の「メタ文脈」という考えを取り上げているが、これは私がいうところの「コンテキストマッチ・言語コンテクスト」に似た概念である。つまり、現象学的な概念の換骨奪胎ではないだろうか。

 わたしの見立てでは、入沢康夫の考え方は現象学的な考え方に属しており、岩成達也は記号論的に誤解されたソシュール言語学を踏襲していて、その<記号論のもつ限界性>をはからずも現象学的な方法で補おうとしているのだ、といえよう。

 「詩行為の本質的部分に、
「作者の側にも読者の側にも、<作者>と<読者>の共存・葛藤-つまりは相互依存-がある」という事実を見たがっている(らしい) 私としては

 ...と述べる入沢の実作者としての実感は、デリダの言う「作者の死あるいは不在」という考え方よりも深いものがあるだろう。

 現象学的にみれば、エクリチュールにおいても、「状況コンテクスト」と広義の「言語コンテクスト」を考えねば、意味の不完全性を能うかぎりカバーすることはできないのである。

 たとえば、岩崎宏美の「熱帯魚」のようなシーンがあったとしよう。
 「今夜はもう帰りません!わたし、
  叱られてもいい、なじられてもいい」

 岩崎宏美・似でなくとも、桐谷美玲・似でも佐藤ありさ・似でも、好ましいイメジをどうぞ。

 すると、相手の男はいささか屈折した、けれども社会人としての理性を備えた人で......

 「ダメな子だね......」と言って、彼女の手を......。(邪険に振り払う......ワケはない!ね)

 この場合、パロールであっても、エクリチュールであっても、「ダメ」という語が辞書的な意味をほとんど持っていないことを、誰でも容易に了解するだろう。

 男は「(いじらしくて)かわいいね!」というべきところを、てらいがあって「ダメな」と言表したわけだけれど、これを記号の差異の体系として読み込んでみたところで、発語者の意図する「意味」は導き出せないだろう。

 記号論者であるジュリア・クリステヴァのような才気のある少女がいたとして、その子は......
 「私ダメな子とあなた言った。私の心からの記号/言語を、バカにした。許せない!」
 ......って、なるのかねェ。人工知能のサイボーグみたいだね。

 デリダの言うように、痕跡としての「テクスト」のみから、受話者は一定の意味を受け取っていると考えるなら、あからさまなもの言いを避けて間接的な言い方を多用する日本人の表現は、まったく禅問答のように脈絡のない対応だということになるだろう。

 私たちは、どのように屈折した表現であろうとも、発語主体の意(意図)を、信憑性関係を通じて把握しようとする。この了解は、ただ現象学的な「感受経験の内省」だけが、それを導くのだ、と。
 このばあい、「意味の了解」は、恣意的な解釈というものではなく、自然な認受(確信)として、信憑性の脈絡のうちから湧き出てくるのだといえようか。

 この「暗黙知」のようなものは決して科学的なものとは言えないかもしれない。けれども、現象学の初めに述べたように、無機物を扱う自然科学と違って、生命現象や人間活動の領域では、科学的ということは条件限定的なものにしか適用できない、ということを意味するのだ。

 言語は話者不在の記号という(科学的な)属性だけで成立しているのではない。
 受話者のうちに、発語主体の「意」を担っていると了解・認受(確信)を与えるような「意味」ををもたらす媒介物を、われわれは言語と言い習わしているのだ。

 竹田青嗣はこのことについて、

 ある「痕跡」が「言語」であるかどうか、つまりそれが単なる一般的意味表象しかもたないか、それとも十全な言語表象としての「意味」をもつかどうかは、ただ「発語主体」(と想定されるもの)と「受語主体」間の信憑構造においてのみ規定される。まったく自由にそこから「意味」を構成できるような(恣意的な解釈が成り立つとされるような)「痕跡」を、われわれは「発語された言語」とはみなさない。

 むしろ、われわれのうちにわれわれの恣意性を超えて何らかの話発主体の「意」を与えるという信憑を作り上げるような「痕跡」(こそ)を、われわれは実質的な意味で「言語」と呼び、言語的な「意味」をもつというのである。

 ポストモダニズムの言語論者には、このような本質論的で現実的な認識が欠如しているのだね。
 それというのも、パロール中心主義で真理中心主義というヨーロッパ思想の限界を打ち破ろうとする、(ヘーゲルがいうところの)懐疑論であるからなのだ。
 この流れは、硬直した伝統的世界観を揺さぶる覚醒の意味を持つのだけれど、決して本流にはなれない一時的な洪水氾濫として、歴史上に「痕跡」を残すだけに終わるだろう。

                                  (2013/08/27-09/01)

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このページは、小林由典が2013年9月 1日 15:42に書いた記事です。

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