現象学的言語論の再定位(5) 言語モデルの試みⅠ

デリダの記号論的言語論は「意味付与」=「意識」と「表現」との関係に言語の本質をみる伝統的言語観を逆転させ、記号がいかにして一定の意味を読み手に喚起するのか、を問題とする。

 エクリチュールはパロールの痕跡などではなく、パロールそれ自体がすでに記号の体系のうちにある。言表や発話は意味の根源ではなく、発話自体がすでに「痕跡」の体系によって支えられている。したがって、「痕跡」であるものこそ、じつは「起源」であり、しかもこの起源はそれ体自すでに何ものかの「痕跡」としてしか成立しないような起源である。

 おかしな言い方だが、これはフッサールのいう「イデア的同一性」という概念と同類の無理筋ではないだろうか。フッサールの場合は数学的合理性を意味するので、あながち誤りとは言えない。
 それに対して、デリダの概念は論理形式上の極端な突き詰めによって「そうとしか言いようがない」概念、いわゆる極限概念であるということだ。これは、フッサールが想定している「数学的合理性のような」現実性を持たない。論理分析を徹底することで現れてくる不可能性を表す概念ということになる。

 デリダは『グラマトロジーについて』で、あらゆる「起源」の「起源性」を抹消するような「起源としての痕跡」(=原痕跡)の概念を「アルシ・エクリチュール」(原書記)と名付けている。

 プラトンのイデア観は事物とイデアという典型的な二元論であるために、当然デリダとしては排斥したい。それでパロールとエクリチュールとの違いをあぶり出す過程でエクリチュールの持つ主体の非在というブランショの考え方を援用して、アルシ・エクリチュールという概念を提示しているわけだけれど、実態は二元論的要素を注意深く排除して再提出した「イデア」の読み替えではないだろうか。

 「何ものかの<痕跡>としてしか成立しないような起源」とは具体的に何かを示す概念などではなく、言表者の意識あるいは心というものと、痕跡としてのテクストを切り離す<ための概念>なのだ。このように脱構築というものが、ヘーゲルが言うところの懐疑論そのものであり、哲学の本質的思考から絶えず転位していく性格がみてとれる。現実離れしているのは当然ではないだろうか。

 前回、デリダの暴論だと指摘した点...「言述者の意識が付与する意味的なものなど、言語記号がそれ自体で意味を喚起するという作用にとって、どうでもいいことだ」という論旨は、「多様な解釈の可能性の自由を常に可能性として残すこと」を意味するようだけれど、これは読者の恣意的な解釈を容認する、ということにつながる。作者は不在あるいは死者として切り捨てられているのだ、とすればだけれど。

 けれどもこれは、非現実的な話であろうと思うね。マラルメ的な表現もヘルダーリン的な表現も、詩的言語世界の新領土を切り開いたと評価するけれど、そういう作者不在の様相を呈した表現だけが全てではない。むしろ、特異な表現だといえるものだ。そもそも、記号学的言語論は、その性格上辞書的な意味一般しか扱い得ないものであり、作者独自の心の有り様を表出する<意味付与>の領域については無視しているものではないか。
 デリダの主張を認めるならば、マラルメであろうがヘルダーリンであろうが、谷川俊太郎であろうが、鈴木志郎康であろうが作者は関係ないという話になってしまう。

 もっとも、デリダばかりではなくソシュール言語学以降の現代言語学は意味の源泉を記号学の領域に預けてしまっており、「差異の体系に見いだせるのは辞書的な意味の多様性ということであり、伝統的な言語論が重視してきた「意味の意味性」それ自身ではない、ということだ。

 たとえば、以前取り上げた田村隆一の『ぼくの鎌倉百景「野原の中には」』を、素直に感情を吐露している、と恣意的に解釈することの過りを指摘したことがある。
 この例など、デリダ的に言えば様々な解釈が成り立つ、といって容認するということになろう。

 けれども「感情移入はもうたくさんだ」と(四季派的)抒情を否定する田村が、眼前の風景を見て「大きな野原が好きだ」と素直に表現している、と解釈されたなら、「何を馬鹿なことを!」と諫めるのではないだろうか。

 表現者にとって、とんでもない誤読をされることは実に気分のよくないことだ。同様に、人生において他者から、思ってもみない誤解をされることは、実に心外で不快なことだ。

 これはデリダ自身も例外ではない。彼は、自分の書いたものを批判されたと感じると、必ず「あなたは(正しく)理解していない。あなたは馬鹿者だ」と言い返した、と伝えられている。

 「言述者の意図(=意味付与作用)など、言語記号の意味形成にとってはどうでもいいことだ」と公言している人が、自分の言述については「それは誤読だ。おまえはバカだ」と反論するというのは、語るに落ちるというものではないかな。

 こういう世界を追求するのは、それを飯のタネにしている学者の先生方に任せるとして、次からは現象学的言語論の再定位を試みていきたい。

 次にあげるのは竹田青嗣の提示する言語行為の一般モデルである。

言語構造 ①は認識問題の領域であり、
 ②は意味伝達・意味理解の領域である。

 竹田青嗣によれば、たとえば「空は青い」という言表がある場合......

 ①は認識論的な問題として、この意味は一般に自明なものとされ何ら問題はないように見える。
 ②は、意味の伝達=了解の問題としては、単なる事実の叙述なのか、言述者の感動を表現するものなのか、判断=決定不可能である。
 言語のパラドックスはこういった「意味の伝達=了解」の問題に重要な焦点を持っている、という。ここでは......、
 ・言語は意味の多義性を露呈し、
 ・ここから「真偽の決定不可能性」のアポリアが現れ、
 ・それはさらに「規則の無限背信性」のアポリアへと展開されることになる...
 ......と。

 竹田はこれに続いて、上の言語モデルを現象学的に「意味の確信成立の構造」として定立した、言語モデル②を提示する。

言語構造2 現象学的な考え方の基本は「現象学的還元」の仕方にある。それをひとことで言えば...
 (1) 対象=事物の客観的存在を前提とするのではなく、
 (2) その現象から「存在の確信」の条件を明確にすること、......である。

 この認識論的な方法は、そのまま言語行為における確信成立の構造にも適用される。これは、説明するまでもなく、人間は言語によって複雑な思考を可能にしているからである。

 だが、ここで私は言表者の意識が言語表現にいたる過程の「発生論」的な問題を、あえて提示してみたい。次に提示するのは、私の考える言語モデルである。

gengo_model02.gif  ・黄色の枠と色で全体を覆っているのは日本なら日本語という言語圏を意味している。
 ・各人はそれぞれのローカル環境における言語という差異をすでに内包している。
 <Φ>という記号はphenomenon(フェノメノン=現象)を意味する。(ギリシャ語のエフ)
 ・各人は個幻想性の基底にある無意識領域での発生学的差異を負っている。
 (「特異的反応」の由来>


 このようなローカル的かつ個別的差異性をはらみつつ、
 言語(=意味一般)を媒介にして、私たちは......
 十全ではない<相互翻訳的意味>のやりとりをしている。

  

     「現象学的言語論の再定位(6) 」につづく

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このページは、小林由典が2013年8月20日 23:23に書いた記事です。

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