現象学言語論再定位(4)パロールとエクリチュールⅡ

前回に引き続き、フッサール言語哲学とジャック・デリダの脱構築論議を、例文をめぐって検討していきたい。意味付与を重視するフッサールと、作者の不在・死を本質とするデリダの記号論...

「ブケファロスはだ」と、「この馬車馬はだ」という言い方では、同じ<>という語が異なる対象を示している」


 「ブケファロス(というの)(アレクサンダー大王の)(の名前)
 この文中のはウマ科の馬一般を指しており、「ブケファロス」という固有名を持つことで、アレクサンダー大王の馬であるという限定を受けている。

 「この馬車馬は(ウマ科の)(一般)
 この文中のはウマ科の馬一般を指しており、「この馬車馬」という指示語によって、現前している特定の馬であるという限定を受けている。

 上のように、注意深く読んでみれば、「同じ<>という語が異なる対象を示している」とはいえず、馬一般(=類的な馬という動物)を指していることに変わりはない。これは辞書的な意味だけを示しており、その前に記された修飾語や指示語によって、ある限定を受けて固有性を帯びる、ということになる。

 同様に、次の語句も、「事物/事実一般」と「限定語」による意味の違いということになる。


 「イエナ勝者」と、「ウォーターロー敗者」では、異なったシニフィアンが同じシニフィエを示している、こと。


 上の「勝者」も「敗者」も、辞書的な「勝者一般」と「敗者一般」を指し示すだけであり、それぞれが「イエナ」と「ウォーターロー」という固有名詞(地名)による限定を受けた結果、換喩表現として歴史上の人物である「ナポレオン」を表象している。

 「勝者」と「敗者」という異なったシニフィアンが同じシニフィエ(=ナポレオン)を示しているとは、けっしていえないはずだ。

 分析哲学の欠点は、事物を細分化しすぎて、本質的なことを見失うことにある。
 言葉の意味は語彙(単語)にあるのではなく、文脈の中において明確性(=限定性/固有性)を獲得するものだ。
 言葉を記号としてとらえ、それを細分化してシニフィアンとシニフィエのごとく要素分解してしまうと、発話あるいは記述の逐語訳のようになり、意味の全体像はより遠ざかってしまうことになる。

 元来、言葉(語彙)というものは、ある共通項をもつ事物/事実をひとまとめにしてAと呼びましょう、Bと名付けましょう、という社会的な約束事として成立しているものであり、それが辞書的意味を持つということだろう。

 その一方で、人間の言語活動は<事物一般>あるいは<事実一般>しか指示しない単語を駆使して、千変万化である個々人の心の有り様を表出しようとする。

 個々の語彙は事物を辞書的な意味で指し示すけれど、言葉=事物/事実ではあり得ないのだから、言葉に限定的属性を与えることによって、特定の事物/事実を「より明確に」指示しようとすることになる。

 このように考えていくと、フッサールが意味付与ということを重視したことはきわめて妥当なことだといってよい。

 それに対して、デリダが扱っている記号論はソシュール言語学の脱構築(という誤読・解釈)と同根にある記号論で、意味論を組み立てていく。

 「ブケファロスはだ」と、「この馬車馬はだ」という言表は、発話者がそこに込めた「直感的な意味付与作用」とは無関係に、エクリチュールのみで二つの「」が違う対象を示していると判断できる、......とする。
 (違いを生み出しているのは「」ではなく、限定語による文脈であるのだが)

 上のような認識から、デリダは「主体の死」あるいは「作者の死」ということこそ、言語の意味作用が機能するための本質的条件であると言わなくてはならない。
 もしある人の「ああ、空が青い!」という言語(記号)が、その人独自の空の青さの感覚あるいは感動を表現すべきものだ、ということになれば、その後だれも自分自身の意味で「青い」という言葉を使えなくなってしまう。

 <私>の記号的価値は話し手の生に依存しない。知覚陳述に知覚作用が随伴しようとしまいと、<私>の陳述に<自己への現前>としての生が随伴しようとすまいと、それは(言語記号の)意義作用の機能遂行には全くどうでもよいことである。

 

 最初のセンテンスで「エクリチュールのみで」と言っている意味は、エクリチュールは「作者の死あるいは不在」を前提として成り立っている」というデリダ的解釈を前提としているということだ。

 これははじめに結論があって、例文を牽強付会的に解釈していると私は考えている。

 この例文は当然ながらパロールでも同じ事がいえるだろう。パロールの場合は話者の意味付与が明確に受け取れるというが、それはありがちな誤解である。人は騙ることもする。
 たとえば、小学生にこの文章を暗唱させたとしよう。語り手は、「ブケファロス」の意味も「馬車馬」の意味も知らないとすれば、意味付与などできはしない。

 にもかかわらず、この語りを聞いた大人は、二つの言述の違いを誤たず了解するだろう。

 聞き手は何を了解したのだろうか。言うまでもなく、辞書的な意味一般を文脈から理解したのである。ここには、パロールとエクリチュールの違いはない。

 デリダのディスクールが牽強付会的だというのは、これを「エクリチュールのみで」と不正確に語り、それを言語一般へと敷衍するところにある。

 二番目のセンテンスでは「意味付与作用」と「事物/事実一般」とを「言語記号」の働きと言い換えることで、ある種の<矛盾>または言語の謎である<不可能生>をあぶり出そうとしている、ことが問題になるだろう。

 詩を書くものの一人として言わせてもらうなら、「ああ、空が青い!」という言述は、実にまさに、各人固有の感受性と感情を「青い」という意味一般にかぶせて表しているのだね。
 たとえば「私は哀しい」という類の表現は記紀歌謡以前の昔から今日まで、永遠のごとくなされているけれど、誰も昔の人が一度使ったからもう自分には使えないなどと、ばかばかしいことを考える人はいない。

 なぜかといえば、最初に述べたように、私たちは「事物/事実一般」を表象するという共通の約束事として成立している言葉を用いて、十人十色・百人百様・千差万別の個的世界の有り様を表出しなければならない、という前提で、話し/記述するという宿命を担っているからだ。

 デリダは「言葉と事物/事象は決して一致しない」という基本認識から、記号論の体系を導入していくのだけれど、それで何が変わり、何が可能となったのかといえば、実は何も改善されたものはないのだといってよい。
 言語のデノテーション的側面は記号論的性質を持っているのではあるけれど、コノテーションつまり話者・言述者の「意味付与」という本質的言語行為の側面を捨象してしまう、という最悪の結論を残しただけだといってよい。

 西洋的合理主義は、明確に弁別できない事柄を無理に枠に収めようとするか、それが不可能であれば排除しようとする。決して看過できない暴論であろう。

    「現象学的言語論の再定位(5)」につづく

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このページは、小林由典が2013年8月18日 12:12に書いた記事です。

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