現象学的言語論の再定位(2) デリダの三批判

デリダによるフッサール現象学およびソシュール言語学批判は、デリダ的解釈による論点の位相変位とでもいうべき誤読をもとに展開されているが、彼の言語観と同根にあるといえよう。

 デリダのフッサール現象学批判は主に次の三点にしぼられる。

(1) 現象学は「生の哲学」であること

(2) 現象学的「純粋自我」概念

(3) 「音声中心主義」

 ここでは、簡単に紹介するにとどめておく。
(詳しくは竹田青嗣「言語的思考へ......脱構築と現象学」が解りやすいので、そちらに譲る)

 (1) について

言語理論にとっての中心の問題は、言語や記号がどのような仕方で「意味」というものを担うのか、あるいはどのようなメカニズムによって一定の「意味」を伝達しうるのか、といった点にあるが、フッサール現象学的論理学では、「意味作用」の根源は「生の作用」、いまここに生きている人々の意識に還元される。ここでは「生」という概念自身は「還元を免れている」、つまりそれだけはある前提として信じられている」...... 『声と現象』


 ......この点については、前回取り上げたハイデガーの意味論は時間的関連性を含んだ「世界内存在」という契機において(意味)が発生すると修正を加えている。
 たとえば、私は冬の朝はいつも、庭に出て向こうの小高い森の頂上にある竹の揺らぐのを見る。その揺らぎ方は、その時の私にとって、多くの意味を持っているのだが......。
 なぜかというと、寒メジナのベストシーズンなので風が弱ければ釣りに行こうと思っているから。風速7~8メートル以下、西風なら**港、南西の風なら**岬、北西の風なら**の磯、北東の風なら中止......、ここ数日の気温低下はなく安定している、TVの天気図による気圧配置は悪くない、現地の波の高さは1~3メートル、......という風以外の情報はつかんでいる。雲の動き(上空の風)とともに、地上の風=竹の揺らぎ方は多くの選択を私に迫ってくる。釣り場の選定によって、装備も大きく違ってくるから。
 難しく言えば、ハイデガー的(過去における)自己企投(~する=未来へ)から今の意識が連なっており、未来(への自己企投)へと連なるものがあるのだね。これが、シーズンオフの今(夏)だとメジナ釣りはしないので、風が吹いても何も気にしないということになる。つまり、意味が消失している、と。
 こうみてくると、フッサールのような「今の意識」=「自己-触発」が意味の絶対的根源であるとはいえなくなるだろう。(元々フッサールは「絶対的根源性」を追求していたわけではないけどね...)
 けれども、ハイデガーの意味論は、優れた生の哲学であり、言葉の意味の由来を人間の意識にもとめたフッサールの基本認識は受け継いでいることになる。

 (2) について

 「純粋自我」という概念はひとつの虚構ではないだろうか」 ......『声と現象』

 「フッサールは、ある一定の時期に現象学は<実証的>な動作、すなわち、あらゆる思弁的な理論的前提、あらゆる先入見を脱ぎ捨てて、現象に立ち戻ることができる動作である、と語りました。現象というのは単にものごとの現実を指すのではなくて、それが私に現れるがままの、その私に対する現れを記述するのです。このような現れの膜をはがして、ものごとの現実からと同時に私の経験の心理的な生地からの現れを区別するために、(現象学の)操作はきわめて精妙になっています。」......『言葉にのって』

 デリダは「経験的自己」と「純粋自我」との違いを問題にして、現象学的方法の中心概念である「純粋自我」を批判する。

 私の見立てでは、純粋自我もしくは「超越論的自我」という概念は、仏教思想における「深般若波羅蜜多時における照」つまり、深い瞑想時における意識の有り様の、西洋哲学的解釈だといってよいだろう。禅における<無我>の境地というものは、古くから西洋には知られていたが、西洋人には「まね事」以上の「禅の修行」をした思想家・哲学者はいない。

 自我中心の西欧的理性の客観主義・絶対的真理主義の限界が露呈してきた20世紀初頭に、西洋思想は東洋の禅ブデイズムに触発を受けたのではないだろうか。

 鈴木大拙は1900年(明治33)に、以前に井筒俊彦の記事で取り上げた『大乗起信論』(英訳)をアメリカで出版しているし、ハイデガーなどの西洋哲学者とも交友関係にあったのだから、フッサールも『イデーン』以前のゲッティンゲン大学時代(1916 - 1928)に、読んでいた可能性も考えられる。

 ソシュールもバルトリハリ言語学を通じて、紀元前のパーニニ言語学を知っているわけで、古代ギリシャのエレア学派に繋がる東洋思想の知識は有していたと考えられる。
(あくまでも素人の仮説にすぎないが......)

 (3) について

 「パロールの過程は、すでにみずからを純粋な現象として引き渡すという特異性をもつ。<自分が話すのを聞く>という作業は、絶対的に独自な型の「自己-触発」である。

 「声は意識である。対話において、シニフィアンの伝播はどんな障害にも出くわさないように思われる。なぜなら、シニフィアンの伝播は、純粋な自己-触発の二つの現象学的根源を関連づけるからである。」......『声と現象』

 判りやすくするために、(デリダ発言についての)竹田青嗣による解説を要約してつけておく。

「声」によって媒介された言語(=パロール)は、その起源である「意識」(=発話者の意)を直接性として伝えるかのような性格をもつ。なぜなら、声によるパロールは、聞き手に、それがまさしく目の前にいる発話者の「心の動き」(=自己-触発)の直接的表現として"現前"したもの、という確信を与えるからだ。
しかしこれに対して、エクリチュール(書き言葉)では、発話者は文字通り現前せず、ただ想定されているだけだ。
ともあれ、パロールにおいては、発話することは、<自分が話すことを聞くこと>が、そのまま他者の中にも同じ形で生じるかのように現れるわけだ。

 まさしくこの理由により、フッサール現象学では「声」=パロールのあり方こそ言語作用の本質的モデルとして措定される。つまり、「誰かの言わんとすること」が正しく、ありのままに表現される可能性の根拠が確保される。これをより純粋化すれば、言語が意識の内実をありのままに表現する可能性は<自分が話すのを聞く>という孤独な内言にその原型的な根拠をもつことになる。」  

 音声中心主義というのは、ソクラテス以来の言語観および認識論の核となっているもので、フッサール現象学もまたその範疇で思考している、ということになる。

 デリダによるフッサール現象学批判の中心課題は、この「音声中心主義」の脱構築なので、この問題についてさらに詳しく検討を加えていきたい。

    「 現象学的言語論の再定位(3) 」につづく

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このページは、小林由典が2013年8月 5日 12:10に書いた記事です。

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