現象学的言語論の再定位(1) 概論

ポストモダニズムによる哲学・言語学の革命は、問題の本質を離れて、現実のレアリテではなく論理上のレアリテを説いているのではないだろうか。現象学の提起した精神は曲解されてきた。

 懐疑論の系譜であるポストモダニズムはヨーロッパ的「知の動脈硬化」を活性化する攪拌作用を担うものではあるが、本質論には至りえない部分最適化という位置づけに止まる運命のように思える。

 「言葉のふるまい(2) 谷川俊太郎からブランショへ」を書いていて、私はどうもブランショやバタイユたちの思想がいわば「机上の論理」であるような印象を感じてはじめていた。

 上記投稿は谷川が対峙していると思われる現代批評を紹介するというのが主目的であるため、バタイユやブランショの「意を可能な限り汲むことが第一である」として引用したつもりである。

 けれども、

 バタイユの「用途なき否定性」とか、「消尽」そして(消尽の果ての)「無為」という考え方など現実から遊離した思考だなと、ついつい冷やかしの言葉を挟んでしまったのだね。

 また、ブランショは「主体が消滅する全体的否定=不在化によってしか、二分法の外と関係することはできない」と、考える。主体と客体という対立をこえて......、あたかも主体自体が消滅する全体的否定が要請されることになる。......

 ...というのは、両極端の思考を、論理上で克服しようとしているだけではないか、ということだ。

 わたしは中国の文化大革命当時に毛主席語録を読み、折衷主義と中庸についての論議をしたことを思い出していた。高校に入学したばかりだった。そして、大学に入って、原始仏典とハイデガーを同時期に読み、西洋思想の排中律と東洋思想の中庸という倫理の対立を知った。

 仏陀が説く「両極端を厭い離れよ」というのは、極端な苦行も、その逆である放蕩も、悟りから最も遠い行いだ、と。これは、論理ではなく、よりよく生きていくための実践理性といってよい。

 いっぽうで、ヨーロッパの伝統的哲学は真理主義・客観主義・絶対主義という排中律であった。弁証法という思考方法は、二項対立を先鋭化していく先に絶対的な真理に到達するとする方法論だが、懐疑論的弁証法は否定のための否定という方向に進みやすく、限度問題であるということが実践理性の側から求められるべきものではないだろうか。

 物事を本質的に把握しようとする優れた哲学者は当然そういうことをわきまえているのだね。
ポストモダニズムが否定するプラトンやヘーゲル、フッサールの哲学的態度を手短に紹介してみよう。

 プラトン
哲学的思考の原理は、本来、異なった意見(ここではドクサを意味する)から、より深い共通了解(エピステーメー)を取り出すための普遍的洞察の方法であるという点にある。しかし「存在の謎」と「言語の謎」は、哲学の思考に内在的であり、ゆえに哲学本来の普遍的洞察思考を疎外し、形而上学化する。であるから常に「適切な形而上学批判」が必要に応じて起こってくるのだ。

   

 ヘーゲル
懐疑主義というのは経験に基づいてふるまうのではなく、学問的な使命を果たそうとするものである。懐疑派の方式は限定という概念ないし本質に狙いを定め、限定されたものをあくまでも否定しようとする。

 竹田青嗣はヘーゲルの論述を補足して次のように解説する。

 「本質的な哲学の思考は、自らが提出した「原理」によって現実の多様な諸局面から抵抗を受け、概念が必然的にはらむ一面性を自覚して、この「原理」をさらに発展しようとする。哲学の思考が一定の命題で表現できないのはそのためで、だからそれは必ず<概念の運動>という形式をとる。しかしながら、この運動も論理形式で表現される以外にない。これは一見、絶対的な同一性をたどっているようにみえる。これを<概念の形式>としてのみ捉えるなら、そこに矛盾やアポリアを指摘することができる」

 ここでいう哲学的「原理」とは、了解の普遍性や共通了解を見いだすために提出される基本的・原則的なタームや定義などを意味する。

 また「絶対的な同一性」というのは、直線的な文脈とでもいいかえられるだろう。あるいは、動的なものに対する「静的な形式」といってもよい。

 再びヘーゲルを引用する。
懐疑論はその本姓によって「真理に関するすべての観念」について、分析的論理思考における内部矛盾を指摘し、その限界を示すことができる。だがこの相対化の本質力はもともと分析的な論理思考を極限化することで得られたものであり、それ自身が分析的思考を基盤としている。

 (その行き着く究極の地点では、結局自己解体に陥る、と。) 

フッサール
現象学の考え方や方法論はフッサール独自のものではない。はじめに引用したプラトンの考え方は現象学の入り口だともいえよう。
フッサール現象学の根本動機は、世界認識における「確信的了解の成立する条件は何なのか」を問うことににあり、そこにこそ近代哲学のアポリア問題の本質があることを明らかにした、という点において歴史的な意味があるのだ。
決して「真理の条件が何であるか」というスコラ哲学のような絶対論を提唱したわけではない。

 わたしは子供の頃から、「ひとの認識(の正しさ)を保証する(必要)条件とはなんだろうか?」という疑問を切実な問題として抱えていた。それというのも、幼少の頃から、周囲の大人と意見が対立して、叱責されるということが多々あったからだ。

 たとえば、保育園で相撲を取るということがあり、私は太った子と対戦して立ち上がりに押し込まれてしまった。すると、先生は即座に私の負けを宣告したのだけれど、私は納得しなかった。押し出しといっても、芝生の上なので土俵の線を引いていないのだから、どこにも出ていない。倒れてはいないのだから、まだ負けたわけではない、と主張した。ところが先生は「いいから、次の子と代わりなさい」と言う。怒ったわたしは相手の子に襲いかかって、火事場の馬鹿力払い腰で地面に叩き付けていた。草原のモンゴル相撲ならわたしが勝者だろう。先生と口論になったのは当然だったが、先生が仮想していた土俵など、その芝生の上では事実ではない(絵空事)と、納得できないものだった。こういう大人の持つドクサとの対立は数限りなく起こるのだった。

 だからフッサール現象学を知ったとき、まさに「我が意を得た」と感動したものである。フッサールの「現象学的還元」というのは、常々わたしが言っている「自然的感性」(=自然主義的ドクサ)を、第一に解消することなのだ。端的に言えば、大衆意識というのは自然的ドクサに満ちている、ということになる。大衆だけではない、素朴な科学信仰もまた自然主義的ドクサなのだといってよい。

 ところが!である......フッサール現象学を学んだジャック・デリダであるが、実に現象学の基本的な誤解(?)に基づいて現象学批判を開始したのだ。
元来、ひとの思想というものは最初から完成された形で成立するものではないことは、誰でも納得するだろう。
前回の、「言葉からの触手」において、人の意識は発生的に見て、生物学的反応のレベルから、感覚の成立そして意識の獲得、そうして概念が顕現してくるという過程を経ることをみてきた。

 その後期課程として、思想というものも同様に、直感的テーゼから小論考、そして大思想へとプロセスを踏む。ウィトゲンシュタインのように、前期の思想を全否定して新たな思想を獲得していくというのは極端な例で、フッサールのように前期・中期・後期というように発展・変遷していくのが一般的ではないだろうか。

 ところが、ジャック・デリダは端緒の問題をクリアした段階のフッサール前・中期現象学を捉えて、その限界性を論じているのだ。

 フッサールはユダヤ人であったために、ナチスドイツの成立によって、公民権停止どころか大学への立ち入り禁止とか著書の焚書および出版禁止という迫害を受けている。したがって、フッサールの後期以降の思想は地下流通でしか知ることができない時期があり、十分な研究と評価が大幅に遅れたという事情もある。

 だが、それにもまして、フッサール現象学の動機である「認識における確信成立の条件は何なのか」という基本姿勢を、「「真理の条件が何であるか」という遺棄すべき絶対主義であると、誤認(?)して批判の俎上に乗せたというところに、デリダのドクサが潜んでいるようだ。
デリダはフッサール現象学を誤読しているうえに、後期の成熟した部分を取り上げていない、という片手落ちのきらいがある。

 デリダは伝統的ヨーロッパ形而上学の相対的批判という自らのポジショニングを確立するという動機をもっていた。現代フランスを代表する思想家が、こんな初歩的な誤読をするとは考えにくい。論点をずらして、懐疑論の文脈に引き込むという意図が潜んでいるのではないだろうか。

 

 デリダはバタイユやとりわけブランショから大きな影響を受けているらしい。

 そのブランショはハイデガーの実存哲学を克服するという課題に取り組んでおり、そのヒントをステファヌ・マラルメやフランツ・カフカのエクリチュールに見出したという背景を考慮に入れておかねばならない。

 つまり、彼らのエクリチュールは「あたかも書き手の不在や死の様相を呈している」ことが、パロールとエクリチュールの決定的な違いである、と考えた。バタイユやブランショは文学作品を扱っているので、評論家としての言説であれば、「言語表現の可能性を拡大する試み」として評価するのだけれど、それは一般言語論の領域ではなく、解釈学の領域に属するのではないだろうか。

 フッサールははじめ発達心理学の視点から現象学を模索してきたが、晩年は発生学的な観点を採用した現象学の構想を打ち出していた。その未完草稿の内容については、専門家ではないわたしには検証することができないが、三木成夫から吉本隆明『母型論』が、現象学的言語論の論理的基盤を提示していると考えている。

 以上のことを踏まえて、次回は竹田青嗣の解説する現象学的言語論から発生学的現象学言語論への再定位を試みていきたい。          (2013-07-29~08-03)


          「現象学的言語論の再定位(2)」 につづく

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このページは、小林由典が2013年7月29日 18:57に書いた記事です。

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