バルトリハリ言語哲学とソシュール言語学

二〇世紀の言語革命は、五世紀ころのバルトリハリ言語哲学と出会って、それを換骨奪胎する形で遂行されたようだ。古典ギリシャ語研究からサンスクリット語との比較言語学へと...

 言語学に分け入ってみると、例によって様々な差異の体系の迷路に入り込む観を呈している。
 手始めに、言語学研究の歴史を概観した書籍を取り寄せてみる。歴史的認識は、方向性を誤らない第一歩なので、岩波講座「日本語」各巻を入り口に、積ん読状態の言語論カテゴリーに分類してある約30冊の書籍を渉猟してゆくことにした。

 さて、バルトリハリは、サンスクリット語で伝承されているヴェーダの文法学者である。
サンスクリット語はパーニニによる厳密な文法学が成立して以来、数千年にわたって大きな変化を受け(つけ)なかった言語であり、ギリシャ語やラテン語と同等あるいはそれ以上に堅牢な構造を保持し続けてきた。翻訳者の赤松明彦博士によると、パーニニ語だといってもよいほどだ、と。

 
 したがって、言語は不変なものであるという歴史的な言語観をバルトリハリは文法学者として踏襲しているが、それは古典言語あるいは文語についての考察であり、同じことはギリシャ語についてもいえる。ヨーロッパの言語学はホメロスの叙事詩などの文法を規範として体系化されたものであり、口語ギリシャ語は時代とともに崩れていった。

 今日ではインド・ヨーロッパ語系統という分類は一般的になっているが、東洋のサンスクリット語が古典ギリシャ語やラテン語、ロシア語、ドイツ語などと同系であることが判って以来、比較言語学という方法論が新たな言語学研究の主流となる。

 この比較言語学とは、単語が似ているとか音韻が似ているという比較ではなく、文法的な法則性が同一規範であるかどうかを重視するものだ。その点で、著しく発達した体系をもつインド古典言語学(パーニニ...パタンジャリ...バルトリハリ)は、ヨーロッパ言語学研究に大きな変革をもたらしたのだ。

 それまでの言語学研究は「言語は古代から現代へという歴史の中で、どのような変化をしていったか」という検証をすることが主目的であった。これを通時的研究という。

 そこに現れたバルトリハリ言語学は、紀元前五・六世紀にすでに完成されていた古典インド言語学を継承しつつ、その他、主要な異説をも丹念に取り上げて論駁を加えているものであった。
 ソシュールは、バルトリハリの学者的徹底性を方法論的にとらえて、言語を横断的につまり共時的に検証することを大胆に推し進めたのだといってよい。

 ただし、言語学の詳細については実に数多くの言語学者が一生をかけて取り組んでいる業績が遺されており、専門家ではない人間が深入りすべきことではないだろう。

 詩を書くものが自らの依って立つ言語観を確認するための「言語哲学」について筋道をつけることが第一なのだ。

 もっと焦点を絞っていうと例えば前に取り上げた谷川俊太郎「メランコリーの川下り」を...、
 ただ単に「暗いねェ」と愚昧な感想を述べるだけに止まらず、
 谷川が「何と対峙しどのように自らの言語観で切り結んでいるのか」を、
 より妥当性をもって理解し得る私たち自身の言語観を用意する必要性があるということだ、と。

 以下、バルトリハリ言語哲学の部分について、若干の補足を加えておきたい。

 バルトリハリにおける<文>(Vakya)とは、人が発する「言葉」を意味する
 文法的な「フレーズ」だけではなく、発した言葉全般を指している。
 であるから赤松明彦博士は「文章」ではなく、「文」という訳語を採用している。
 この点は重要な意味をもっているので、ご注意いただきたい。

 Vakya こそが単一不可分の最小の単位であり、言語の理解はVakya を基礎においてはじめて成立する、とした。

 したがって、<文>を分析して細分化した<単語>(pada)という単位、およびそれをさらに分析して得られる<名詞語幹、動詞語幹、各種語尾、接辞>などは意味の単位としては虚構の部分とされた。わが国では仏陀の「ダンマパダ」(Dhammapada)を「真理の言葉」と訳すけれど、 pada も「言葉」ということで、紛らわしいことだ。

 一方で、音声の要素である varna は、意味とは無関係な要素とみなされる。

 <単語>はバルトリハリ文法学では、上に挙げたように名詞/動詞/動詞前綴り・小辞とに分類される。

 <単語>はまた、意味の上から三種類に分類される。
 <実体>を表すもの......個物あるいは属性の基体。「これ」とか「それ」で示される。
       =区別されるもの 
 <属性>を表すもの......基体に保持され、他の基体と区別する要素
 <行為>を表すもの。動詞。

 サンスクリット語の特徴である統合形......複合語=いくつかの単語がつながって一つの単語となるもの。上座部仏教に「説一切有部(sarvāstivādin)」などという名詞は有名な複合語だろう。私はこの言葉に出会って、インド的だなと強い印象を受けた記憶がある。

 それでか、詩の中で「♂♀混合密着マッサージ性電気ショック」などという複合語のフレーズを時々使うことがある。ロシア語やドイツ語でも少なくないね。

 

 さて、ここで本来ならばソシュール言語学との類似性を検討する予定でしたけれど、現在、私の興味は認識と言語の方に先行しており、考えを整理する手段として書くことの意味が薄れている。

 実はこの2週間ほど、Windows XPからWin8 への移行に手間取って、記事を書く環境が整わずにおりました。サウンドデバイスを認識しない、ネットに接続できない、IBMの画像処理ソフトがインストールできない。3年ライセンスを購入したカスペルスキーがWin8 対応でなかった。等々、何度もクリーンインストールをし直して、結局 Win7 を買い直して、これを軽快に使うためのカスタマイズをあれこれ施して、ようやく使えるようになった次第。XPマシンに8を入れて使うには、各種のドライバやアダプタ、ソフトもハードもout of date なものが出てくるということですね。

 それで、インストールなどの待ち時間の間に、バルトリハリ言語学の下巻を読了し、講座言語学を斜め読みし、現在は竹田青嗣さんの『言語的思考へ......脱構築と現象学』を読んでいる最中。

 それで、当初のもくろみを変更して、ソシュール言語学に対する批判および反批判という問題から、現象学そして反現象学としてのフーコー構造主義、そしてポストモダンのジャックデリダへの反措定など、今日的な問題を急務として、取り上げていくことにしたい。

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このページは、小林由典が2013年7月13日 14:50に書いた記事です。

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