言葉のふるまい(3) 詩の言語、想像的なものをめぐり

続いてブランショはサルトルの「想像的なもの」を足がかりにして、レヴィナスの「想像的破壊」という考え方に至る。ヘーゲルからサルトル、レヴィナスに至る経緯を簡単に追ってみたい。

 ブランショが提起した問題を論じていこうとすると、言及されている多くの哲学者や作家たちを参照していかざるを得ない。
 そのような検証をすることは大変な回り道であり、詩を書くことからはどんどん遠ざかってしまう...
 ...というジレンマに陥る。

 けれどもそれが現在の詩を取り巻くコロスの声である以上、詩作者の一人として避けて通ることはできないはずだ。

 以前、詩の集まりで、(「メランコリーの川下り」が話題になって......)
 「谷川俊太郎はこの頃暗い詩を書いているね。鬱という文字がどうのこうのと......」
 ...という話が出たけれど、結局「暗いよね」というだけの寸評だけで済まされて終わりなのだね。

 <蒙(くら)い>のは、この人たちの頭の中なのだろう。谷川俊太郎の苦闘と千里の径庭がある。
 吉岡実は「想像力は死んだ、想像せよ」というベケットの言葉に震撼した。
 これについて瀬尾育生は「詩人の恣意のみの軽薄なる言葉を、きびしく戒めているように思われる」として、かれはむしろ「詩はなぜ死なないのか、詩はとっくに死んでしまったというのに」と、問うべきだ、と語る。

 詩は死んだという意味は、
 「過去の現代詩がよってたつ秩序というものが、もはや誰にとっても自明のことではなくなった」
 ...ということだ。

 詩を書こうとする人が「どう書けばいいのかと参考にした既存の詩群が明示する詩の根拠......
 「言語観、レトリック特にメタファ、話法、意味」といったものがもはや無力となった、ということだ。

 自分たちが死んでいることを知らない詩人たちが、「詩の書き方を、知らないのね」と言うことは、実は「(もはや終わってしまっている)過去の規範あるいは秩序を「踏襲していない」のね、と言い直さなければならないことになる。
 そういう意味であれば、「当然だ」と答えれば、済むだけの話なのだね。

 長くなりすぎるので、少しだけ、前回の続きを論述してから、簡単にわたしの興味の方向性を示唆して、皆さんの勉強の参考に供したいと思う。

 言語は個々の単語のままでは「規定された否定」をなし弁証法的二分法の内に囚われている。

 サルトルは『想像的なもの』において、
 「イメージの作用は対象を非存在として、
 あるいは不在(ここ、にはない、あるいはどこか他のところに、ある)」として、措定する。
 これは、ハイデッガーの「世界内存在」という定義を受けて、
 「世界内にとどまる意識によって」生み出されると考えたものだ。

 これを突き詰めていくと......、
 「その対象を現前しないもの(非現実的存在)として措定することもできる」し、
 この否定作用とは「全体としての世界の<空無化>(=否定)を通じてのみ可能である」
 ...ということになろう。

 そして措定された非現実的対象(=想像的なもの)は......
 「世界内存在である条件を否定した反世界として、現れるように思われる」と、展開してみせる。

 しかしながら、行動する哲学者としては、
 「意識がとどまる場所である現実の全体が否定されることはあり得べからざること」
 ......として、その思弁哲学的な論理を採用しない。

 実践倫理がここに見え隠れしているように思う。

 論理的な位置づけとしては、「否定とは、何ものかの否定である」というヘーゲル弁証法的な範疇に収斂してしまうことになる。

 知の仕分け人ブランショにとって、サルトルの論理は徹底性を欠いているということになるだろう。
 ブランショは、サルトルが採用しなかった、
 「想像的なものが保有する否定作用は、全体としての世界の否定を通じてのみ可能である」
 ...とオーバーフローした考えに注目して、これを裏返し、
 「全体の否定によって想像的なもの(=非現実)がもたらされる」とした。


 この仕分けに論拠を与えたのは、レヴィナスの「想像的破壊」という考え方であったといってよい。

 ブランショからレヴィナスの論理の流れは、文学の有り様を考える上で、一つの極北を示してはいるだろうが、決してそればかりではない。これは文学の新たな領域を広げる営為であると考えるべきかと思う。

 ブランショは西洋合理主義的知性でポストモダンを仕分けをしていく過程で、
 バタイユやレヴィナスの論理に含まれる暗黙知の領域を切り捨てている。
 なぜならば、それらについては合理的に説明できないからだ。

 彼らが一様に出会っているのは、西洋でいわれる「神秘思想」の流れではないだろうか。
 そのような思想は古くはギリシャ哲学と時を同じくして生まれ、発展あるいは伝播・相互影響して、イスラムの思想やインド哲学、中国あるいは日本では禅仏教、という形で非西洋思想として存在しているものだ。

 これは、単純に西洋と東洋という区分はできず、西洋思想の中では<神秘思想>として、命脈を保っている、と。

 しかしながら、東洋の伝統的思想の基本的な認識(という西洋哲学用語では不適切だけれど)は、「本質直感」という非科学的なものなのだね。これを合理的に説明しようとすると、井戸をめぐりて夜もすがら、という様相を呈することになるわけだ。実は、その中心にあるのが本質直感という主体と客体のあり方なのだ、と言える。

 マイケル・ポランニーの「暗黙知」や、メルロ・ポンティの「キアスム」(chiasme)という考え方は、東洋的な本質直感に通底するものだといってよい。
 ことに、臨済・禅は「公案」という、ことばを介した本質直感を特徴としている。

 臨済・禅は、空海・真言宗のような独自の言語論を著してはいないけれども、主体と対象とは不二である(主客同一)という考えを持っている。たとえば、大自然と人という関係において、古来の日本家屋は西洋的な(壁で仕切るという)建築を発展させず、紙一枚の障子だけで区切り、内と外という厳然たる仕切りを作らなかった。

 自他一如、身土不二という言葉や、臨済・禅の公案は、西欧的ない二項対立のデジタル思考を持っていない。日本語もまた、西欧言語とは異なる、他に類をみない構造的な特質をもっている。

 西洋のディスクールを日本語に翻訳した批評言語でもって、日本の詩を仕分けしようとすれば、過去の文学史にみられる如きミスリードをもたらす部分が少なくはないのではないだろうか。

 現在、詩を書こうとすれば、これらの問題について、自分の論理的根拠を自覚しておかねばならないはずだ。死んでいることにも気づいていない有象無象らの中で、自分のポジショニングを確立しようとすることなどにはいかほどの意味も価値もないのだ。

 井筒俊彦は『意識と本質』において、この領域における注目すべき考察を行っている。
 詩的言語について考えるならば、こちらをこそ追求すべきだろうと、わたしは考えている。

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このページは、小林由典が2013年6月14日 23:50に書いた記事です。

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