言葉のふるまい(2) 谷川俊太郎からブランショへ

この詩集で谷川俊太郎が向き合っているのは、モーリス・ブランショが提起した言語論の問題であろう。言葉は存在自体の属性を剥奪する。その失われるものを回復するのが文学だ、という...

 前回の記事を書きながら、小学生の「カエルの解剖」のような、自分の手さばきにいささかの嫌気を感じる。詩をバラバラにして、ピンセットで裏返してみたり、メスで切り離してみたり...。
 地下のしゃれこうべどもと同じことをやっていることに気づかないわけではない。
 詩の読み方ではない、のだけれど......

 『メランコリーの川下り』を斜め読みながらも何度か通読してみると、
 3つの主要なイメージが残像のように浮かび上がってくる。

 一つは、瞬間あるいは一瞬という語彙にまつわる、ポエジーの有り様への愛惜である。
 たとえば五月のトカゲの輝き...を感受した「ハッとする」思い。

 その一方で、言語自体が持つ異化作用(=対象化)が、
 五月のトカゲの輝きを半透明の薄膜の向こうに追いやってしまう......
 ......ことへのジレンマ、さらには諦めの心境......とでも......。ことばの世界の光景だ。

 さらには、詩作者のジレンマを横目に、詩を差異の体系でもって解体ショーを演じる批評への「笑み返し」......かな。書庫にさざめく......「背後の笑い」......への......。

 (1) 確認のために少し引用したい。「 VTR」の最後の部分。
 (VTR で撮った)
 目にうつり耳に響くもろもろをつなぎ合わせ加算することによって、私は世界を愛惜する。
 それらは小鳥が枝にとまるように束の間この世にとどまるだろう。 

 「小石」から......、
 なんの気なしに小石を拾った瞬間
 なつかしくて
 その瞬間に戻りたくても戻れなくて

 「メランコリーの川下り」から、その終わり近く......、
 詩は一瞬でも......
 あの若葉の......葉先に触れたことがあったろうか......
 だがもし触れていたら......枯らしただろう

 詩の意味的な読み方になってしまうのですが、この詩の話者である<私>は、バタイユ~ブランショの問題提起を受けとめて、それに沿って自らの意志決定と態度表明をしているように思える。

 それが直接的な関連であるか、フランス文学系批評を介してのものかは、ここでは問わない。

 ブランショの言語観では、文学の言語は弁証法的正・反・合→反・合...という過程を突き詰め、
 もはや否定が不可能な地点に至ること」が求められる。
 その場所は、もはや弁証法の内部ではなく、その外といってよいのだ、と。
 言いかえれば、主体と客体という対立をこえて......、
 あたかも主体自体が消滅する全体的否定が要請されることになる。

 この考え方は、ベルリーンの弁証法においては「悪しき無限」として排除されているものだ。

 (......と書いて、上の言葉は学生時代に、東・隣室のヘーゲル研究者から言われたものであることを想いだした。その前には西・隣室の、東洋哲学科である先輩から、「女を毒婦と蔑称することは、自分の母をも蔑視することになる」と、因果の法で私の詩を批判されたりしていたことまで、想いだした。両隣の、東西哲学徒から批判されながら、詩を書いていたんだね。)

 ヘーゲルハイデッガーの弁証法では、
 悪無限とされる全体的否定の連鎖の果ては主体の消滅から<無名の死>に至る道として規定される。

 けれども、ハイデッガーはこの未来に立ちふさがり、乗り越え不可能な、必ず訪れる<死>を、先駆的に受容することによって、人は自分固有の存在性を獲得する、と捉えなおして見せた。
 死というものは、絶対的に代替不能なものであり、おのれの死を介在することによってのみ、無名の死を免れうる......つまり、固有の存在たり得る、と。

 優等生的弁証法思考による、<死の介在>モデルだといってよい。若い時分には実感しがたい思考だけれど、自分に残された時間を気にして生き急ぐ年齢になってくるとリアリティを帯びてくる。

 ヘーゲルもハイデッガーも哲学者であり、人の生き方という方向で弁証法の問題を考えている。ブランショのように弁証法の外に立つというような発想そのものを目指していたわけではない。

 それに対して、ブンラショは......
 主体が消滅する全体的否定=不在化によってしか、二分法の外と関係することはできない......
 ...と考える。指向するものが異なるのだ。

 ブランショは文学の言語の主体として、他者あるいは対象との係わり方がどうあるべきか、ということが考察の対象であった。

 ブランショは親交のあったジョルジュ・バタイユ『内的体験』の執筆に関与した経緯から、マルキシズムのアンチテーゼ的な概念である「用途なき否定性」とか、「消尽」という考えに影響を受ける。

 バタイユによれば、弁証法の否定が、ヘーゲル的な(規定された)否定であることを脱するのは、その否定が「有用なものを生産する労働」であることをやめる段階に達するときである、という。

 「有用なものを生産する労働」をやめる、ということは生産が過剰になり、有用性が意味を失うということになる。

 経済学用語が出てくると、途端にわたしの頭はボケになるのだけれど...
 松下幸之助さんの「水道水」理論の結末は......、
 「勤勉なる労働者はやがてバタイユ的な無為の人(=芸術家)になりさがる」ということかのぅ?

 そのステージにおける人々や物は、有用性の秩序(=有意味性)の外に<裸のまま>存在することになる、と。

 どうも、バタイユの弁証法には、論理にならない飛躍があるようだ。
 事実、バタイユは「内的体験」と称する、神秘思想的瞑想体験の世界に分け入っていった。
 その帰結として、西洋的理性ではない<非理性>の思考法にシフトしていくのであるが、
 それを西洋的理性で記述しようとする無理が、この飛躍として現れて来ざるを得なかったのだ。

 「......わたしはこの虚無のなかで突如として未知の存在となった......わたしはかつでどこの誰も笑ったことのない笑いを笑い、一切の事物の底の底が口を開け、裸形にされ、わたしはまるで死人のようであった......。」

 バタイユは、
 こうした死人のようである体験のただ中で、
 裸形にされた(=ありのままの事物)事物と関係してゆく、のだという。

 バタイユの記述を読む限りでは、低次の瞑想状態に近いものだという印象をうける。座禅で言えば「魔境」というレベルだといってよい。禅でいう悟りではなく、そういう境地へ至る一過程での心的現象であり、一過的なものだ。
 (ポエジーというものは本来が一過的なものであり、それがダメなのではないが......)

 ブランショは理性の人であったから、「バタイユ的内的体験は瞬間的なものであり、持続可能なものではない」として、重きを置かない。

 けれども、反措定的マルキシズムのテーゼである(消尽の果ての)無為という考えに内包されている意義に光をあてる。

      「言葉のふるまい(3) 」につづく

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このページは、小林由典が2013年6月10日 22:28に書いた記事です。

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