言葉のふるまい(1) 「メランコリーの川下り」 谷川俊太郎

言葉による表現が言語の構造や働きに立脚している以上、言語観の大きな変化は表現にも相応の変化をもたらす。詩作者はこの変化をどう受けとめ、詩を成立させようとしているのか?

 言語表現は、人間の五感に直截的に感受される<生きている事物>の特異性(固有性)を剥奪(=否定)し、<事象一般>(=事物の不在化)を本質として成立している。

 言葉による分節論理として、いちおう(という限定をつけ)理解できるだろう。
 であれば、詩の表現は、どのようにして、剥奪された特異性を救済していくのか...。
 ヘーゲルからハイデッガー(そしてサルトル)の弁証法を踏み台にして提示されたブランショの問題提起に対して、バタイユや、レヴィナスそしてブランショ自身がその処方論を掲げる。
(詳細については順次取り上げますが、大変煩雑であり、くたびれもうけに終わるかと思う)

 けれども、それらの論理は「これとは示されないある概念」の周囲を、(事細かにつつきまわした差異の系列で)取り巻いているだけ、のようにわたしには思われる。
 結局、(言語表現として)それで(どうすればいいの)?......ということになるだろう。

 ここでは、見方を変えて、
 「第一線ですぐれた詩を書いている実作者が、どのような表現をしているか」を検証して、
 ......理論倒れになる愚を回避しておきたい。

  「私は、いま、グラスに酒を注ぎ、ちびりちびりと舌にころがしながら、キーボードを打っている」
 ↑ 上の文は、手垢にまみれた、使い古された慣用的な言葉の羅列ですね。

 たとえばこの「グラス」......皆さんが了解するイメジは、ブランディー・グラスだろうか?
 それとも、ワイングラスだろうか、ウイスキーグラスだろうか...。

 <グラス(一般)>は、私の手の中にある「篆書で酒と刻印された、ガラス製の、日本酒ぐい飲みの小さなグラス」の固有性を剥奪して、各人各様の恣意的なイメジを喚起する、...
 つまり「事物の非在」を了解事項として表現を成立させている。

 これは言葉の本質的な作用であろう。
 何かを語り文字で書くことが、言葉による「存在自体の本質」剥奪を顕現し、
 いわば「ドミノ倒し」のような事態となる、ということを再確認して、話を進めてゆきたい。

 谷川俊太郎は、詩集『メランコリーの川下り』(1988年)の冒頭で、次のように言表している。

 「 ......。

  七五の乗合船に枕をかかえた人々を乗せ、うたの清流へとへさきを向けたいのは山々だが、 ぼくの言葉をそんなところで眠らせるわけにはいかない。

 ...白い居間へ招きよせるまことしやかな映像の中で、真実の乞食は悪臭を失い、喜びも怒りも  決まり文句の菓子型で打ち抜かれる。

 ...書物に封じこめることの出来ない五月のトカゲの輝きをみつめ、その輝きさえもあざ笑う地下のしゃれこうべどもに嫉妬して、悲鳴と哄笑をくちなわによじりおのが領土を結界する。 」

 上の第1連、七五=韻律、乗合船=座(小共同体)、枕=枕詞、うたの清流=短歌、と推測すれば、文の意味は言わずもがなだろう。

 第2連、映像=TV画面が切り取った対象は五感のうちの視覚要素だけ、実在する筈の匂いも映像には無い、と。
 さらに十人十色、百人百様の喜びも怒りも、型枠のような慣用句で抜き出されることになる。

 第3連、トカゲはナナフシと同じ実体的存在。くちなわ=朽ち縄=蛇のメタファ

 さて、問題はここからだ。

 「その輝きさえもあざ笑う地下のしゃれこうべども」とは誰等を指すのか。
 「悲鳴と哄笑をくちなわによじりおのが領土を結界する」とは、どうすることなのか。

 さらにこの詩集『メランコリーの川下り』を読み進めていこう。

 呑みこむだけじゃあ無味乾燥だが/噛めば意味にも味がある     「店先」

 「荒地」派に代表される戦後詩は、主として陰喩を用い意味的な文脈の詩を成立させていた。
 言葉の意味的な要素とは「言葉は現実の事物の再現前化である」という言語観に立脚する。

 今日の詩は言語の意味的な要素を第一義とはせずに、言語表現は言語自体の織りなす世界によって成り立つ、と考える。

 けれども、この詩の話者は「意味にも味わいがある」と。偏ってはイカン、ということだろう。

 ことばの鱗に被われて魂は這ってゆく/見えない寺院の縁の下へ   「ごちそうさま」

 野村喜和夫の「息吹節」(1975年)を連想します。これは、後に取り上げるフレーズの予告となっているかのようだ。

 私はパイのように世界を切り取るが、傷つけ分断することで、それを支配しようという気はない。 むしろ世界をそのひとつひとつの細部において、無言のうちに讃めたたえたいと願っているのだ。
 (目の前のロバに)ロバと名付けることなしには書けない詩という形式に倦み疲れている。
 (言葉ではなく)むしろVTRの映像によって、
 生きている自分自身に死の沈黙へとむかう混沌を用意したい。...    「VTR」

 前半部は、言語に自覚的な詩を書いている大多数の人が、「そう思う」と同感するだろう。
 そして田村隆一と同様に、「言葉なんて知るんじゃなかった」という思いに襲われる。それは、これから書く言葉の重苦しさであるよりも、すでに書いてしまっている言葉への咎に思い至るからだ。
 ならば、むしろ言葉のいらない映像表現に耽溺するほうがマシなのではないか、という思いに少なからず誘惑されるかもしれない......。

 「死の沈黙へとむかう混沌を」......命尽きるまで、(ハイデッガー的な)死に先駆する生の混沌に身を置きつつ、詩作をしていこう、というむしろ現実肯定的な意味を帯びている。

 麦藁帽子がもう/どんな夏のイメージも喚起しないことに/気づいていない大人が多すぎる
                                 「少年Aの散歩」

 これは、私が「古い現代詩」とあえて<名付けて>いる「言語に無自覚な」詩への叱責のように感じる。イメージに関わっているのは詩の世界であり、ただの<大人>ではなく詩作者なのだ。「麦藁帽子=夏」という類の固定観念で詩を書いている無自覚な「詩人」が多すぎる。そういう詩が氾濫しているからこそ、「詩は死んだ、詩作せよ」などという批評的言説が飛び交うのだ、と。

 電柱は電柱のふりをして/何食わぬ顔でたっている

 もっとひねってみよう。ナナフシはカマキリのふりをして/何食わぬ顔で隠れている。
 特異性を剥奪されようが、されまいが、当の<存在>はそんな言語論的分析など何処吹く風で、 そこに、ただ、ある。電柱として、......存在している......ではないか!
 ここは、谷川俊太郎の言語論的反論が明瞭に見てとれる、見逃せない文である。

 「電柱」として抽出された言葉は、どこそこの電柱という具体性(事物の個性)を失って、単なる文字として記されるけれど、この詩の領土にあっては「飄々とした風貌をした」人間的存在としての命を与えられている。つまり、実体性を詩的個性と交換して、存在しているということだ。

 鱗をもたないから人は這うのが得意ではない
 蛇の素早い動きを心の中でなぞることが出来るだけだ

 前出の蛇の譬えによる「シニフィアンの自走」についての、谷川的切り返しだ。蛇の譬えはうまくいっているけれど、人についてはどう言表するのだね...少しばかりシニカルに呟いているかな。

 感情は何も学ばないし何も蓄えない/そして理性は......学びすぎる

 そういうことです。
 「詩はすべて抒情詩だ」などとうそぶいている詩作者は、言語の現在について何も学ばないだろうし、言語の歴史を自覚することもないのだ。
 膠着語である日本語の構造自体が、叙情的要素を孕むのであり、(内心の吐露という)抒情が主たる目的で書かれた詩というのは、今日的現代詩では「背後の笑い」にかき消されるだけだ、
 ...という認識が欠如しているのではないだろうか。(瀬尾育生 ↑ 「われわれ自身である寓意」)

 だが、その一方で、荒川洋治がいうところの<IQ高官>たちは、受苦するフュジスとかテクネーとしての言葉だとか、(ce mot meme : c'est)などと、ギリシャ語からおフランス語まで駆使して、「詩はなぜ死なないのか、詩はとっくに死んでしまったというのに」とうそぶいている現状がある。

 言葉はヴィールスのように人を侵しつづけ、沈黙という抗体すらもう役立たない。
 言葉に魂を吸い取られて、人はゾンビのようにさまよっているではないか。

 これは、バタイユ~ブランショにいたるディスクール(言説)を参照しないと、明確なイメージは喚起できないだろう。次回以降に取り上げる。

 老大家は、最後に、

 ......書くために
 書かないでいることを学び......
 書く......ために
 もう一度初めから......
 書き方を覚える
 その学校には誰も......いない

 ...と書き残す。

 きっちりと言語革命と向き合って、自分の言語観と態度を表明していますね。

  固有である限りにおいて無名性を保持しているものを、名付ける主体である詩の話者は捉えることはできない。
 なぜなら、主体である話者は、まさに主体であることによって、内部 と外部という二元性の内に留まらざるを得ないために、フーコーの指摘するような<その外側>を取り込むことはできないということになるだろう。

     「言葉のふるまい(2)」 につづく

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このページは、小林由典が2013年6月 7日 12:01に書いた記事です。

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