臨詩 「織リシス-石切山ノ神」 注釈

替え歌とは内容を換骨奪胎したものなので、本歌には形式的あるいはリズム的な特徴や魅力があるということだ。それをなぞりつつ自らの世界を投入する臨詩は理解にも詩作にも役立つ。

 愉しいので、G's スタイルの「臨詩」も書いてみた。以前、タイトルだけ告知していたのですが、そのまま立ち消えになっていました。題から分かるように、吉増剛造の「オシリス-石の神」が底本。

 自分で車を運転する人は、一度通った道ならすぐ覚えるけれど、助手席に座っている時は余り覚えないことが多いと、経験的に言える。

 詩の場合も、似たことがあるなと、思いました。読むだけでなく臨詩をすると、理解が全然違う。

 前回、吉増剛造の「オシリス、石の神」を読んで、いまいち意味不明だなと感じていたことが、
 吉増スタイルの意識に同化するようにして臨詩「織リ詩ス」を書いてみると、
 以前には「分からなかったこと」が、何の違和感もなく自然に理解して通過していたことに、後で気づいたのだった。

 それは「ワタシノナカノミチヲ岩盤ニソッテ、歩イテ行ッタ」という部分。

 これは、最初に「穴虫峠」というところを過ぎた時に、この地名に強い印象を受けて、石の神の(体内の)穴だから、岩盤の壁でできている穴、という発想をしたということなのでしょう。
 なぜ「ワタシ」の中なのか?......、この発話主体の転位は何?と、引っかかったわけです。

 それが、臨詩しながら当然のように分かっていて、この部分を通り過ぎている自分に驚いている。

 それと、「私」と「わたし」とを区別して書いていること。
 私とは誰か、という問題を主題にしていることが見てとれます。
 この問題を何も意識していない人は、今日の詩を根底のところで理解してはいないのだろう。
 戦後詩的なメタファーは、今日では主体から客体へのメタモルフォーゼになるのだ、という。

 吉増剛造は、臨済禅的な主客合一のメタモルフォーゼを、この作品で試みているといってよい。

 「織りシス-石切山の神

 吉増剛造は<緑色をした>「オシリス」ですからね。
 検索キーワードで「オリシス」とありましたが、そこの所誤解のないように。
 わたしの場合は「臨詩」ですから、「織リシス」と業界用語的に語順を転じています。

 「織リシス」は、大谷石の黄緑色をしていますので、全然別物。これは私の固有時の世界です。
 「臨詩」ですけれど、内容は純然たる私の「世界」......それが、臨詩ということなのだ。

 今回は、「背中合わせのカリアティード」と同様に、三重の総体的メタファー構造となっています。

 「中有」の意味が分かった方はセンスがあります。荒川 スタイルの後継者の資格ありですね。

 「織リシス」全体の陰喩的意味が分かった方、吉増 スタイルの後継者の資格ありですね。

 やってみなはれ......。

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このページは、小林由典が2013年6月 2日 23:00に書いた記事です。

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