バルトリハリ 『古典インドの言語哲学』 の衝撃

バルトリハリ『古典インドの言語哲学』(文と単語についての書)に衝撃を受けた。古代インド、五世紀グプタ朝の文法学者・言語哲学者が二〇世紀の西洋言語学に革命をもたらしたという。

バルトリハリはパーニニ(紀元前五・六世紀)の文法学派に属し、大文法学者パタンジャリ(紀元前二世紀)でいったん途切れたかに見えた文法学の伝統を復活させた。
 言語学者としても、インド古典期を彩る諸思想家の中で、言語論に関して彼の影響を受けなかった者はいないという。

 これはバラモンたちだけにとどまらず、仏教徒やジャイナ教徒たちもバルトリハリの注釈書などを読んでいたというが、バルトリハリ自身は、仏教の影響を受けて仏教的な語彙の使用や言いまわしなどにその痕跡を残していようだ。また、唐僧の義淨(三蔵法師)も『Vakyapadiya』を『薄迦論』として、記述している文献がある。

 それだけではない、インド哲学者・仏教学者の中村元先生によると......、

「実にインドの文法学は古代・中世では世界無比の発達を遂げた。インド人の組織した文典の体系的にして細密なることは、近代人にとっても大なる脅威である。近代西洋の言語学者が、新しく言語学を組織するに当たって、最も多く暗示と刺戟とを与えたものは、サンスクリット語並びにその文典であった」   (中村元 『ことばの形而上学』岩波書店)

 ......ということですね。
 「新しく言語学を組織する」というのは、ソシュール言語学に始まる言語学革命に他ならない。

 わたしは、前回取り上げた井筒俊彦先生が触れているバルトリハリの『古典インドの言語哲学』(Vakyapadiya)について、「日本語にも影響を残しているサンスクリット語の言語学だから、何か参考になるのではないか」と、日曜日一日をかけて第一巻を、メモを取りながら読了して、ソシュール言語学と相通じるものがあることを強く感じたのだね。

 西洋人たちは、何処かでバルトリハリの著作に出会っているはずだ、と......。

 以下、「第一巻」について、メモの一部をピックアップしてみたい。

 バルトリハリは基本的に(ヴェーダ)文法学者であるから、ブラフマンという超越者の記述や、ヴェーダ文法学の意義などについての記述がメインなのだけれども、それらについてはここでは割愛させていただく。(ブラフマンを絶対的一者とするヴェーダは西洋の聖書に比される)


 『古典インドの言語哲学』Ⅰは聖典(ヴェーダ)の言葉(アーガマ)についての綜合的考察
 『古典インドの言語哲学』Ⅱ 文についての考察 

 言語理解の基礎に、単語ではなく、<文>をおくことを唱える。
 「文こそが単一不可分の意味の全体であり、文の内部においてこそ語は意味をもつ」とする。

 ヴェーダに沿って、「文=ブラフマン=全体」という言語論を確立。

 「(語と意味と)の結合関係は永遠なものである」とは、
 (語と意味の間に)<これはこれの>という関係
 (すなわち、語は意味の表示者であり、意味は語の被表示者である、という関係)
 ...がある場合に、語と意味の間には、<これはこれである>という結合関係が成立する。

 そのような結合関係は、(意味=対象の数は無限にあるのだから)
 ひとつひとつの意味=対象を指示することが不可能であるということによって、本有的なものであり、それ自身の本性によって成立しているものであることがわかる。
 (本有= 本来的な存在。初めから有ること。生まれながらに備えていること。)
 (本性=ほんせい、古くは「ほんじょう」本来もっている性質。生まれながらの性質)

 語と意味との結合関係は、感官とその対象との間に成立する関係と同じように、
 「照らし出すものと照らし出されるものの関係」によって成立する。
  (照明[プラカーシャ]=認識のこと)...意識が対象を措定し、措定すると同時に措定せられる

 その違いは、それが言語協約を限定要素としてもつ適合性であるというこである。
 この適合性は、人の働きによって達成されうるようなものではなく、非人為的なものである。

 意味=対象と同じ姿の表象をもった観念で、外界の対象事物へと投げ込まれたものが、ちょうどたとえば(書かれた記号や文字のような)字音の(理解のための)契機にすぎないものが、字音そのもののごとくに考えられるのと同様に、まさに意味=対象=事物(アルタ)そのもののごとくにまさに同一の対象そのものとして認められるとき、語と意味の結合関係は、常にその連続性が途切れることのない因果関係としてある。

 およそ単語と呼ばれるもののどこにも、そのかたちに関して何一つ確定したものはない。
 諸単語のかたち、それにまた意味は、他ならぬ文の意味だけから生じてくる

 アーガマと論理的判断

 (アーガマ=伝承。ここでは、ヴェーダ、文法学などを意味する。)
 直接知覚と神的知識は、たとえ(論理的判断による知識と)矛盾することがあっても、その場合は、論理的判断(によって導かれた結論)を排斥する認識となる。

 (直接知覚=超越的直観、神的知識=アーガマの智慧)

 ・主体と客体とが分化した状態においては、
 行為主体は、コトバを(道具とすること)によって、目的=対象=結果に対して働きかける。
 それと同様に、
 ・主体と客体とが末分化の状態においては、
 コトバこそが、目的=対象=結果として存在している。
 (眠りなどの状態の時→夢の記述)

 「訳注」
 アルタ(artha)...人が意図するもの・こと、人が目指すもの・こと
  例 語のアルタ
 =意味するもの/意味されるもの、指示される<事物>そのもの(両方の意味を包含)
  →「意味=対象=存在」と訳す

 直観(pratibha) バルトリハリは、直観を「文の意味」と見なした。
   我々はひとつの文を聞いたとき、個々の単語の意味を個別的(逐語的)に理解するが、
   そのような理解とは全く別に直観(=ひらめき)が生じる。それが「文の意味」である。
   「文の意味」は単語の意味の単なる集合に還元できない単一不可分な<全体>である。

 バルトリハリにとって、直観は(先天的な本能のようなものであり)...
   ・諸存在の変様の根源であり
   ・言葉の多様な変様の根源である

 自然的(prakrta)と非自然的(aprakrta)の対立
  自然本性=日常性...直接知覚と推理およびそれらを手段として認識される外界の自然事物
   ↑↓
  非日常性...アーガマ(歴史)、ダルマ、直観(pratibha)

  一般的な認識手段(プラマーナ)として、以下の三つを認めていた。西洋思想と対比すれば、
  ・アーガマ     ......  聖書
  ・直接知覚     ......  自然的感性の感受
  ・論理的判断   ......  弁証法思考

 バルトリハリは、非日常的な認識としての<直観>を、ある意味で別格なものとして、第二巻「文について」(Prakirnaka)で、集中して論じている。


 なんか、読んでいてワクワクしてきますね。

 谷川俊太郎『メランコリーの川下り』を、バルトリハリの言語論で顧みれば、全く別の様相を呈してくることが容易に分かる。

 谷川の詩的言語観は、バルトリハリ言語論の日本版だと言えるのではないだろうか。

 

     「バルトリハリ言語学とソシュール言語学」 につづく

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このページは、小林由典が2013年6月19日 12:30に書いた記事です。

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