「討議戦後詩」(3) 統覚、主体

抒情の問題が「作者の叙情」から「言葉の上の叙情」に変革されたように、統覚の問題も「作者の統覚」から、「テキスト上の統覚」へと視点が転位した。そして文脈はメタ文脈へ......。

 引き続き、統覚の問題をみていきたい。

 瀬尾育生は評論家ですから、あくまでもテクストの問題として考えている。
 私は詩作者としてつい考えてしまうので、作者の統覚と誤読した、ということになるでしょう。

 自分の詩は客観的にみることができないといわれるとおり、
 詩作者と評論者とを必ずしも明確に分離していない自分の不徹底さに気づかされたわけです。

 テクスト上の統覚ということになれば、岩成達也が潜性態としてメタ・文脈という考え方を提示したことは、妥当性を持っているだろう。

 旧来の詩歌観で、簡単に言い変えれば、<行間の(意義の)文脈>ということになる。
 ことばがデノテーションで用いられていない現在の詩にあっては、意味ではなく<意義>のメタ文脈をたどるのは当然の成り行きだ。

 『討議戦後詩』の「展望と総括」のところで、城戸朱理は堀川正美の詩を次のように評している。

「非常に夥しい言語で夥しいイメージを連ねていて、陰喩的なものには還元不可能な細部を多く含み持っている。そこにはある感受性の乱反射というものがあり、同時にそこでは石原吉郎的な主体ではない別の主体が一方で問われているような気がします。むしろ自分の感覚が世界を覆い尽くしているような印象があって、それは考えようによっては、六〇年代のラディカリズムの先触れだったのではないか......。」

 石原吉郎的な主体とは、シベリア体験という人間存在の極限的な状況で、誰々という名を持たない生命あるいは生存、難しくいえばレヴィナス的な「イリヤ( ilya )」のことだね。

 石原の詩は、この「存在から存在者へ」の問いのシフトを実践した、と野村喜和夫は見ている。

【 注 】
 Emmanuel Levinas ( 1905-1995 )
 旧ロシア(現リトアニア)出身のユダヤ人で、フランスの哲学・倫理学・タルムード学者。

 レヴィナスはフッサールおよびハイデッガーの弟子筋にあたり、ハイデッガーはフッサールの後期の現象学を評価せず、前期現象学を自分の哲学に取り入れている。

 レヴィナスはハイデッガーの「存在者(あるもの)」と「存在(あること)」という区別(=「存在論的差異」)を、受け継いでいるが、「存在」が「存在者」の述語であるとなれば、「存在」のより根源的な意味が見てとれないとして、これを拒否する。

 レヴィナスの ilya 「(~が)ある」という概念は、まだ主語と述語との区別が現れず、また「無」へと逃れることの出来ない、人間だれしもがとらわれている根源的な事実としての「存在(ある)」だと、される。

 レヴィナスの「イリヤ」から「存在者」への移行という考え方は、彼の捕虜体験と決して無関係ではないだろう。レヴィナスは第二次大戦中にフランス軍に参加し、ドイツ軍の捕虜となって、ドイツで抑留生活を送る。そして、故郷の親族たちはほとんどナチスによって殺害されている。

 野村喜和夫が石原吉郎の詩に、レヴィナスのイリヤを連想するのは、極限状態に置かれた人間存在の「イポスターゼ(hyposutase=実詞化)というレヴィナス用語からの類推であり、ごく自然な帰結だと思う。

 けれども、石原吉郎のような極限的な体験をするということは非常時ならではのことであり、1969年頃まだ10代だった私は、ハイデッガーではなく、限界状況を想像し思惟するヤスパースの実存哲学にならって、『古典力学』という世界を書き連ねたわけです。

 堀川正美の話に戻ろう。

 彼の詩は、確かに六〇年代的ラディカリズムに通底するものがると、同感するね。
 自分の感覚でドラスティックに内面世界を創ってしまっているのだけれど、
 俗世間に対する違和感をアウフヘーベンした(ような)言語の集積した詩的世界
......なのだ、と。

 

 石原吉郎的主体の問いかけは、個を突き抜けた普遍に深化させていくことになる。他方で、
 堀川正美的主体は、どういう意味と可能性とをもっているのだろうか。

 野村喜和夫

 「いったい抒情詩とは何なのかという視点から、新たな堀川正美の解読を始めることはできないか。堀川正美の詩は、抒情の危機そのものの表出と考えていいものであって、抒情詩の可能性を考える上でも、やはり重要な参照点になると言えるのではないか」

 城戸朱理

 「堀川正美の持つ拡がりの中核には常に主体があり、この主体はやはりロマン主義的な主体と言っていいかと思う。」

 私に言わせれば、堀川正美の詩を覆い尽くす過剰な主体というのは「ファウスト」に通じるなと。「最も美しい瞬間」を追い求めるファウスト博士(ゲーテの戯曲の主人公)を連想する。
 ミニマルなファウスト的主体、とでも言うべきか......。
 14歳の夏休みに読んだきりの「ファウスト」なので、詳細な記憶を保持しているわけではないですけれど、自我のうちに全世界を取り込んでしまいたいという欲求に好奇心の強い少年が共感した、と思う。

 歴史的にみれば、ロマン主義的主体というのは近代というものとともに不可能性に突き当たった、ということですけれど、野村喜和夫はそれだけではないのではないか?と、含みを持たせている。

 この部分については、野村の著作の方で展開されることになるので、この項では触れない。

 『討議戦後詩』については、主体と統覚について取り上げたが、他の詩人論については分量が多いので割愛させていただく。私の目指しているものは言語と認識の問題解明にあるので......。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/30

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2013年5月13日 18:00に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「「討議戦後詩」(2) 統覚について、部分と全体」です。

次の記事は「現在詩へのアプローチ(雑感)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて