「討議戦後詩」(1) 近代という陥穽と閉塞

「討議戦後詩」(野村喜和夫+城戸朱理)は狭義の「戦後詩」という枠組みで「荒地」派などから検証を進めずに、「近代」という視点から「戦後詩」の再定位を試みる。近代とは何か?

近代>の問題は「コギトから構造的知へ、世界観のパラダイムシフト」で以前取り上げましたが、その(4) まで書いて、「(5) に続く」としたまま立ち消えになっていました。

 そこで、おさらいの意味も含めて、ここで補足をしておきます。

 野村喜和夫は詩における「近代」について、オクタビオ・パスの『泥の子供たち』という詩論集を取り上げ、

十八世紀に始まるドイツロマン主義から現在に至る二百年を貫くある動きが、今終わりつつある。

 それをパスは「近代性」と呼んでいて、ひとことで言えば変化の美学と断絶の伝統だ」と。

 「ドイツロマン主義」...かのハインリッヒ・ハイネにも『ドイツロマン派』という著作がありますけれど、ヘルダーリンやシュレーゲル兄弟、そして論理的にはヘーゲルを中心とした「イエナ」の文学・哲学環境で醸成された文化風土や歴史観ですね。

 その影響下に興った、イギリス・ロマン主義、フランス象徴主義、ずっと下ってシュルレアリスム、あるいはイギリス・アメリカのモダニズムなどはすべてロマン主義のいくつかのヴァージョンである、と。

 オクタビオ・パスは、これらの流れの根底にあるのは、「現在から未来へ」と向かう(という)直線的(近代的)な時間意識なのだという。そういう動きが二百年を経て、1970年代半ばに行き詰まりあるいは臨界点をむかえているとして、次のように述べている。

(先行する文学運動や作品を否定すると同時に、自己をも否定してゆく)否定性(による前進性)は習慣的な反復と化し、反抗は手続きに、批評はレトリックに、批判は儀礼に化している。否定は創造的ではなくなってしまった。とはいえわれわれは芸術の終末を生きているわけではない。近代芸術という概念の終末を生きているのだ

 『泥の子供たち』には「ロマン主義からアヴァンギャルドへ」という副題がついている。

 原著は1974年に出版されており、日本語版は1994年に水声社から出版されました。

 パスは南米屈指の大詩人で知識人ですから、西洋も東洋も相対的な視点で縦横に論じている。現代詩の歴史と現在を概観するには格好の書だといえるでしょう。

 「近代性は、西洋だけに限られた概念で、他のいかなる文明においても見いだされない。その理由は簡単で、他の全ての文明が措定した時間のイメージや祖型からは、われわれの時間観念は、それらを否定するものとしてすら導き出せないからだ。

 私は基本的に宇宙の原理は螺旋的な進行であるtai_i.gif

と考えておりますから、前時代の否定も反動も螺旋
運動のある対立的定位のベクトルの違いにすぎない
と解釈しています。右図は螺旋運動の一循環を取り
あげて、ある位置でのベクトルを矢印で表しています。

 この螺旋運動を横から(時系列で)眺めればそれは波動形つまり<歴史の波>として見えるわけですね。いわば「連綿体」なのだ。

 そういう考えからすると、近代の時間観は内的時間意識の投影であり、峻厳なデジタル思考である近代的批判性は常に一過的な性格を持つ変化の思想である、といってよい。

 そういうことを頭の片隅において、70年代半ばに始まった現代詩の(大?)変化をもう少し見とどけておきたい。

 十九世紀的な知の体系はヘーゲルによって代表される体系化された人間の「精神」、「理性」、「意識」を中心とした「学」の流れであった。

 ところが二十世紀になって、「言語論的転回」と「構造主義革命」によって単一的な世界観の体系は解体されていった。

 

 「18世紀から近代の「人間科学」の中心にあった「人間」という認識の主要な契機が、20世紀を通して出現しつつある現代的な知の布置において「言語」に取って代わられるという事態に直面した」
                           M・フーコー『言葉と物-人間科学の考古学』

 ・意味が自明性を失う、
 ・意識が透明であることをやめる、
 ・記号の作用を支えていた超越論的な体系が崩れる。
 ......そこに<言語の問題>が全面的に露呈した。

 20世紀のエピステーメーは、構造主義思想が示したように、
 「言語」への関心を知の編成の中心に成立した。

 端的に言ってしまえば、20世紀においては、
 社会や文化の理論は、言語論を媒介させることなしにはもはや成立し得ない、と。

 当然のことながら、どのような文学理論も詩学も暗黙のうちに、
 自らの言語理論を根底に置かねばならず、そこから半ば無意識的に
 「意味」や「価値」や「システム」といった領域についてメタ理論的な決定を受けている
......ということになる。

 (以上は、シリーズ言語態(1) 「言語態の問い」(東京大学出版会)から、要約させていただいた)

 問題の所在とその先取り的結論だけを書きましたので、少し難しくなってきましたけれども、こういうことは詩に係わるものとしては知っておく必要があるかと思う。

 簡単な例で説明しましょう。

 『詩的世界定位』で私が取り上げた野村喜和夫の詩「息吹節」(言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を、移動を)について、「(理屈は分からないけど)こんな詩が良いとは、私は思えない」という批判的な評価をされた方がおられました。

 私は野村喜和夫の、
「岬の詩学」......日本語と外国語との潮目に成立する日本語の新たな可能性とか、
 ランボー「地獄の季節」で野村が見いだしたシニフィアンの自走という言語学的見方、
......などを知っていましたから、
「おお、シニフィアンの自走が像的に表出されているな」と、詩的な感動を覚えたわけです。

 ひるがえって、「良いとは思えない」とおっしゃっているご本人の書く詩は、短歌的抒情あるいは日本的無常観の表出に終始しているものばかり。

 「今は私詩の時代ですから」だとか......。

 その審美眼とはいったい何に依拠しているのか、と問うならば、<近代>以前なのだね。
 <近代>ですらない。

 「~と、<私>は思う」、その<私>は「反省以前的コギト」以前であり、
 そういう<私>性に根拠を置く読書感想文、つまり解釈の恣意性という隠れ蓑を着て、
 自然的感性による印象批評を行う、
......というお寒い状況が、ここばかりではなくどこにでも見受けられるだろう。

 野村喜和夫の「息吹節」という詩は、メタ詩(詩についての詩)ですから、読む人の言語観あるいはその<メタ理論的な決定>を必然的にあぶり出す試験紙のような性格を持っているのだね。

 タコの地獄焼みたいに赤色が浮き出て、みごとにあぶり出されている......。

 前置きは終わっていないが、一区切りつけておく。

 

     「討議戦後詩」(2) につづく

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/27

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2013年5月 6日 00:09に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(4)」です。

次の記事は「「言語態の問い」(1) 言語の世紀へ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて