意味から像へのメタモルフォーゼ

「大井町」を意味的な喩から像的な喩への移行の妙だと評しましたけれど、荒川洋治の詩は基本的に<日常性の仮構>の上に、<非日常的言語空間>を創出する試みだといってよいだろう。

 簡単に言ってしまえば、「ヘンゼルとグレーテルの童話の、お菓子の家」なのだ、と。

 言葉を意味として使っていない詩を、論理的に追求しようとすれば、その網の目をかいくぐってくる、言外の意味の余波に足元をすくわれることがあるかもしれない。

 これが、4コマ漫画などのコミックを読むのであれば、誰もリアリズムだなどと思いはしない。

 しかし、詩のばあいは、何らかの現実との関連を想定してしまうことは、言葉の性質上やむを得ないところがあるはずだ。

 詩が現実との関連をまったく拒否してしまうならば、その詩がもたらす感動あるいはポエジーは、(言葉使いの)<おもしろさ>という、きわめて限定的なものに終始してしまうのではないだろうか?

 

 私の場合は、意味の世界に片足を乗せ体重をかけて、意味を破砕しながら、
 <お菓子の家>から、ハードなレア・チーズケーキなどを持ち帰ろうと......

 だから、言葉のアヤを記述していたとしても、それだけではなく、地下に埋もれた栄養根とでもいうべきものが備わっていることを重視しているところがある。

 

 たとえば、「幽明の糸紡ぎ」に出てくる<ナナフシ>が良い例となるだろう。
 前回、荒川洋治の「大井町」を読んでみて(私も)同じようなことをやっているなと感じたけれど、
 どうも似て非なるものであるという思いもある。

 私の詩の中に出てくる「分節(ぶんせつ)する」というのは、

 言語学の場合、「いっ・ぴき・の・むし・さえ・とらえ・る・こと・が・でき・ない」というように、音を区切ることであり、その区切りが現実の事物をかたどる役割を担い、文脈を形成することになる。

 この問題については、「言葉の振る舞い」で詳しく追求していますので、ご参照ください。
 簡単に結論だけをいってしまえば、安易なラベリングで言葉を考えては詩にならず、言葉の死をまねくのだ、と。

 であるならば、言葉はどういうふうであるべきなのか?
 「詩はあらゆる規範から自由なのだ」と、芸術至上宣言をすればそれで済むのか。

 フーコーは「外の思考」という論考で「私は話す」という<騙る主体>への自己言及について、
 「現代文学の自己自身への内面化を示す」という一般的な見解を斥けて、
 むしろ文学の「外」への移行が見いだされるはずだ、と独自の見解を示した。

 「私は話す」という自己言及性は、

 「私はである」あるいは「私はする」という、
 一人称を主語とした文の一例に過ぎないように形式的には見えるだろう。
 だが、内実は大きく異なっている。たとえば、

    私は

    休みの日に

    赤い花を持って

    彼の思想を

    慰問する

                      荒川洋治 「急停車」

    吾輩は猫である

    名前はまだない

                      夏目漱石 「吾輩は猫である」

 に入る「花を持って」とか、「猫」とか、は、発話から切り離されて存在することを前提としている、らしい。<女性>や<猫>に仮託されているわけだね。

 ところが、「私は話す」は、
 <話の内容>それ自体と、
 発話の前提となっている状況あるいは状態と、
 ......が、つかず離れずの関係にある、と。

 つまり、発話が消えると同時に、「私は」も「「話す」も消えてしまう、ということになる。

 フーコーのいう「外の」というのは、「命題-対象の関係」の外、言いかえれば、
 主体の内面性と、対象の外在性という二分法それ自体の外という意味だ。

 言語学においては、「主・客の一致」をめぐって、可能であるのか不可能なのか様々な論議がなされている。

 フーコーはそのような「外の思考」の実現者として、ヘルダーリン、マルキ・ド・サド、マラルメ、アルトー、バタイユ他の名をあげる。
 とりわけモーリス・ブランショの存在は、この思考そのものなのだ、と評価する。

 たとえば、ナナフシという名前=言語は、いま、ここに生き生きと動いているこの<ナナフシ>ではない一般的な「ナナフシ」としてしか、表現できない。私が五感で感受するこの<ナナフシ>ではない、と。

 これがヘーゲルの見いだした、言語の否定作用=殺害だ、ということになる。

 ヘーゲルの読解は、ジョルジュ・バタイユやジャック・ラカン・モーリス・ブランショらフランスの思想家たちに大きな影響を与えたようだ。

 ブランショの考えを簡単に言えば、言語が「殺害」し、「不在化」することによって、初めて言語以前に存在していたことが知らされる<本質>あるいは<真意>を救い、回復させねばならない、というものなのだね。

 私の詩でいえば、<ざこキャラ>という言葉が、<ざこ>とくくられる(=表現される)個々の存在たちの個性(=特異性)の剥奪であり、言語による殺害なのだ、ということになるでしょう。

 ブランショにとって、この殺害された特異性を救済する試みこそ、文学が担うものであった。

 問題はどのようにして詩が名辞(ことば)以前を捉え得るのか、ブランショ的探求となり得るか、ということだ。

 

    「語りから騙りへのメタモルフォーゼ 」に続く

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このページは、小林由典が2013年5月20日 08:05に書いた記事です。

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