荒川洋治的言葉の世界(2) 「急停車」

一篇の詩を読んだだけでは、群盲象をなでる解釈になりかねない。特に、言葉の指示表出性を破棄しているかのような詩では、詩集全体で何かの大きな喩となっているということが考えられる。

 ということで、『続・荒川洋治詩集』(現代詩文庫)から、「遣唐」の部分だけ、急いで読んでみた。

 実を言うと、荒川洋治の詩集は現代詩文庫の二冊しか持っていない。

 読んでみて、「遣唐」は<検討>の読みかえであると<見当>をつける。

 詩のタイトルが言葉ゲームのキーワードとなっていて、ほとんどが隠語的用例をもち、なおかつ荒川的コノテーションのひねりが効いている、という構造をもっている。

 まず、菅谷規矩夫さんの論理的な解釈をそのまま紹介してみることにする。

arakawa02.gif......うことに主眼が置かれる。と同時に、この希薄さじたいが、一種の精密度を有している......そのようなたしかさがひつようなのだ。(......と続いている)

 菅谷さんは「斜めの基軸」という硬い表現をしているけど、要するに言葉の連結部を脱臼させるということだね。散文的(=意味的)な言葉の連結を、可能な限り奇想天外な組み合わせで繋ぐ。

 そこに言語上のポエジーが発生する、と感じているのだろう。
 いや、ポエジーを感じさせる組み合わせを発見しようと、しているようだ。

 さて、「急停車」は話者が女性として設定されている。菅谷さんの解釈では、

   このモノローグの本体は「ものがたり」にあるのではなく、レトリックの綾......ことば模様の
   おもしろさにある。たとえば「思想を慰問する」というメタファは、男に会いにゆく女の言葉
   というシチュエイションにおいてこそ生きる表現であるというように。

   しかしまた他方、このヒロインが「祖国は不思議な色に燃えている」というと、それが小説
   の場合なら、当のヒロインがそのようなことばを発する必然性すなわち作中の文脈での
   <意味>が根拠づけられねばなるまい。そうしなくてよいところに、詩が、ことばの表層で
   あれ深層であれ、自在にかすめすぎ、すり抜けることのできる自由さの一端がしめされて
   いる。
   要するに、詩は、ことばの根拠を証明する責を負わない...
   ...ということなのだ。


 後半部分はまさにそうですねと同感しますが、なぜ私が女性である必要があるのかという説明には十分答えていないように思える。

 『遣唐』には、「湖」など、<私>という話者が女性である詩がある。
 読んでみると、それらはいずれも話者を女性に設定することによって、<物語>の坐りが良くなったり、語りの重苦しさを解放し軽く切り結ぶことができる、というもくろみがあるからなのではないか。

 

 具体的にみていこう。この詩は言葉を、とくに概念語をあたかも物質のように扱っています。
 片岡義男の『おれのハートがノーと言う』を思い出しました。これですよ。

 第一節は、伏線あるいは布石です。菅谷さんは見落としているようですが......
 私の<願い>や希薄な<ものうさ>が、物のように記述されている。

 ここで注目すべきことは、「私の願いを/かみしめつつも」は、あまり違和感を感じずに読み過ごすことができる、という点だね。

 けれども、「母の言葉をかみしめつつも」とか「悲しい思いをかみしめつつも」という用例は一般的ではあるけれど、「願いをかみしめる」という用例はありそうでじつは無いのではないかと思う。

 私は、はっきりと違和感を感じるけれども、普通の人ならば、そうは感じずに読み過ごすでしょう。
 実は、<読み過ごさせること>......これが、第一の布石であるといってよい。

 次に、「ものうさを/めぐっている」で、概念語が物質のように扱われていることに薄々感づく。

 そして、「彼の思想を/慰問する」というキーワードに上り詰めることになるのですが、

 ...... その前に、ダメ押しの布石が敷かれているのだが...。

 何だとおもう?
 そう、
 <赤い花>なのだ。

 これは現実の花(の概念)であると同時に、ロシアの作家ガルシンの『赤い花』でもある、と。
 現実のことを示しているわけではなく、<物語>という言語の上で成立している事象だね。

 ガルシンの「赤い花」は、汚辱にまみれた社会の悪を象徴している。
 で、「おおざっぱにいえば」ロシアの赤......つまり、
 1970年前後の政治の季節当時、左翼的活動をしていた若者たちの政治思想を示唆している。

 ガルシンは......、
 結合性偏執狂的な特徴をもつ統合失調症のような精神疾患を幾度となく発症していたらしい。
 あまりにも鋭敏すぎる感受性と過剰過ぎたシンパシーそして、
 社会悪を絶対に容赦できない純粋な正義感を持っていた人のようですから、
 「おおざっぱにいえば」当時の学生運動は「左翼小児病」である、と揶揄している、と。

 すると、<私>が男として設定されていると、......
 <私>=荒川洋治だと勘違いする<左翼>小児病者もわんさか出てくるのがオチであろう。
 早稲田ゲバルト・スポーツ社のチェ・ゲバラとそのゲリラ部隊が夜闇にまぎれてやってくる...
 まずいのだ。

 私は、『古典力学』で描いた左翼闘士たちのアパートでのエピソードを思い浮かべる。

 ブントの活動家で、早稲田から東大大学院に進み、ヘーゲルを研究していた先輩の話......
 そのひとの彼女は長野県の大地主のお嬢様で、日本女子大の学生なのですが、
 「共産主義と資本主義と民主主義を比べたら、私は民主主義がいいわ」と、仰ったそうです。

 どっと、疲れるね。

 であるから、<私>は、この場合<ギャル>に限るのだよ。
 学校サボって 目白をゆけば ポン女のネエちゃんが 横目で睨む~

 それでいいのだ。

 キーワードの意味が分かれば、後半はこの詩集全体に通底している事物的エロチシズムをひと撫ですればよい。

 「私のからだが届かぬうちに」とは「私がイカないうちに」の言いかえであり、
 前回の詩同様、男女の営みにおける<タイムラグ>を示唆しているのでしょう。
 時間差攻撃って、けっこう空振りすることがあるよね。メグ......
 彼の<フェラーリ>(エンブレムは<暴れ馬>なのだ)は、高性能ブレーキングで、
 マックスターンで旋回し・高速ドリフト、そして急停車するのが常だ、と。若いですから。

 <くさるほど湧く>
 これも、ぼんやりと読み過ごしてしまうフレーズだね。

 昔、馬を飼っていた知人は、沢山あることを「馬に食わせるほどある」と言うのがクセだった。
 <くさるほどある>とか、<ボウフラのように湧く>という用例はあるけれど、<くさるほど湧く>という用法は、ありそうでないだろう。

 ......「くさる」というのは、生体が品質劣化をおこし、やがて生分解されること。
 はっきりいうと、老化していくほど、体のあちこちに顕現する不都合な事実を指している。
 <冷厳な>事実は、彼にも、彼女にも、現象してくる。
 <女>は、他の詩の中でも、<冷たくなる人>という描写をされている。
 <一部>を除いては、<女>の手は、足は、尻は、いつも冷たい。冷厳な事実である。
 「胴に触れると指がめり込むようになった」「俗に言う三段に......」冷厳な事実である。
 「(お肌の)曲がり角をまわると<世界>はざらついた相貌を顕わにする」冷厳な事実である。
 「まっさらな真剣も、古びて、そこもとという古語になり果て、うなだれる」冷厳な事実である。

 ......あれも、これも、それも、ここも、あそこも...冷厳な事実に満ちてくるのだ、哀しいね。

 それで、<終了の幕引き>の後で、彼の<思想>は<慰問>されたのか......。

 鉄のカーテンが引かれた後、世界は冷戦状態に突入する、<彼>と<私>も、かくの如し。
 世界は<冷たく>燃えている。
 「祖国は不思議な色に燃えている」朱色であったり、白であったり、ピンク、一部黒かったり。

 書きながら、なんか悟りを開いた仏陀のような語り口になっていることに、「私」は気づいた。

 この場合の、<祖国>は、様々な解釈がありそうだ。
 「遣唐」の詩に、図面(=地図)をめくりながら、振り出しの<港>を......という記述がある。
 だとするならば、この詩集『遣唐』全体が、じつは祖国であり、全体のトーンを言っているのか、
 あるいは、1970年を境に、正常化という不思議な静寂が出現した時代状況のメタファーなのか、
 この辺が、菅谷さんの言う「意味やイメジの、あたうるかぎりの希薄さを競う」ということなのだろうね。
 それで、「好き(勝手)にして......」と不貞寝している<女>(=<私>)の、
 まだ冷めやらぬ、火照りと冷えが入り交じった肌の色を、
 ......私は<好きで勝手に>想像しているけど、<彼>目線ではだめかね。

 ここも、もっと突っ込んだ解釈があるのだけれど、別の機会にしておく。

 そして、最後の2行。ここは、
    赤き花に/水をやる
   とすれば、ただ凡庸なだけの表現でしかないわけだ。

 荒川マジックでは、
     花の閼伽器(あかき)に
     水をやる
 と、なるのではないかな。

   <私>は「冷たくなった」状態にある、つまり、俗に言う「昇天した」(死の意匠)わけだから、
 仏事に用いられる<閼伽器>が連想されても不思議ではないね。
 あるいは死んだのは<彼の思想>であり、ガルシンの<赤い花>であり、おおざっぱ......なのだ。
 閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことだ。六種供養のひとつ。
 閼伽を入れる器とは、すなわちこの場合、花瓶を表象しているだろう。
 言語経験を積んでいる荒川洋治のことですから、それくらいのことは視野に入っているかと思う。
 私は人生経験は積んでいるのだけれど、言語経験は散文歴が大半で、解読に難儀するね。

 「荒川洋治隠語辞典」みたいなのを出版してくれないか?

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このページは、小林由典が2013年5月19日 09:47に書いた記事です。

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