荒川洋治的言葉の世界(1) 「大井町」

荒川洋治詩集『遣唐』は、80年前後のアイドル歌謡曲の歌詞を思い出させる。内包するエロチックなイメージを、デノテーションの文脈によって覆っている。デノテ・コノテ・あの手という隠語...

 ......デノテーションとコノテーションが混じり合って、<この手>というような隠語世界が見え隠れするけれど、最後は(読者にとって)意味不明、(作者にとって)理解の拒否、という宙ぶらりんの状態をもたらすだろう。

 実は、前回吉本隆明の言葉を引用した時、現代詩手帖の前の方のページに菅谷規矩雄さんの「言葉のゲーム」という記事を見つけましたので、少しばかり私の解説を加えて、紹介しようと。

大井町

 菅谷規矩雄はまず音数律をチェックして、短歌的構成の部分を取り上げて、解析する。

 第一節の3-6行は、「七つ八つとさがしたが、彼女の家は見つからず」と読み下す。
 すると、七・五・七・五の口調になる。

 それが一つの伏線であり、その予断をもって第二節をみると、七・四・五・七・七である。
 つまり、第二節の5行が、音数律を柱あるいは枠組みとした表現であると仮定するならば......

 町のあかりにずぶずぶぬれながら二本の足を跳ね上げている
 ......これは、充分に一篇の短歌として独立した作品だと言えることになるだろう。

 次に、第三節の5行を、こんどは、三句切れの短歌における上句・下句の喩的な対応の構成に相当するものとして読むことにする。
 上句に相当する「叔父は......女をかこっていた」のセンテンスは、主として<意味>の脈絡を形成している。

 下句にあたる「......大きな円を描いて果てている」は、<像的>な表出である。
 なにが、円を描いて果てているのかは、明示されていない......明示の必要がないからである。
 ここでは、なにかしら「大きな円を描いて果てている」ものの像が提示されることだけが、(下句にあたる3行の)主題だからである。


 以上が、前半の音数律的構成の解析である。

 解釈については省いて、分かりやすく区分けをしました。第二節の菅谷の解説では......

 「場面を確定する必要があるのだったら、雨の夜景を歌ったと考えてもよい。
 「二本の足を跳ね上げている」のはだれか。
 作者によって、他人事のように見いだされた作者じしんか。
 あるいは、作者によって、わがことのように見いだされた他者か......そのいずれかである。

 とともに、そのいずれでもあるところに成立する<半対象化>である。
 感情移入と、そのうらがえしの重ねあわせである。
 わたしがここで連想するのは、雨の日に長靴をはいた子どもが、わざわざ水たまりをえらんで、ジャブジャブはねまわっている図である。そのような稚気に通ずるあわいユーモアが、「ずぶすぶぬれながら......」にはあるといっていい。

 しかし荒川の作品じたいの構成は、<解釈>に対して、あわいユーモアならぬ、かすかな悪意をかえしてくるようにおもわれる。


 菅谷さんは音数律を研究されていた方ですから、一読しただけで別に分析するまでもなく、この詩の構成が透視されたかと思います。

 ただし、東大で研究をされていた学者さんでもありましたから、真面目すぎる解釈であり、この詩が返してくる「悪意」を書き切ることが出来なかったのでしょうね。後で、解説しましょう。

 「もんだいはつぎの点にある......
 下句にあたる後半部の「円」のイメジは、上句たる前半部の記述から、いかにして、導かれるのか。
 ここで、わたしたちの短歌ゲームは、作者の、ことばごっこと、ゆきあうことになる。

 すなわち「女をかこう」という言いまわしから、作者は「囲う...円を描く」という連想をひきだした。

 ここまでのところで、三首からなる連作短歌だと仮定したときに、それはつぎのような「物語」を語っていることになる。

 語り手である私の叔父が、むかし「女をかこっていた」という「大井町」で、その「女」が住んだ家をさがしてみようとしたが、結局はみつからず、すっかり夜になってしまった。そのあわい徒労と疲労の中で、「私」は、男に囲われている女の、「大きな円を描くように果てている」生と性を、おもいえがいてみた。

 この古風なものがたりが、しかし、「女をかこう」......囲う......円を描く、という着想に結びついたとき、まさにこの着想の新しさゆえに、現代の詩たりうるものになった。

 「大きな円を描いて果て(ている)る女」というイメジに、作者のあえかな(それとも、はげしい?)エロチシズムは秘められている......そう読むことが正解(?)であるとするならば、これは室生犀星をおもわせもするが、しかし犀星には不可能にちかい着想の新しさである。

 終節の9行は、上のような読解の脈絡からすれば、男も女も、それぞれ、ひとりひとりがひとつひとつの「町」の円の中で、それぞれにひとりずつ「冷えてゆく」そして、なにかの「果て」にゆきつくのだ......という意味になるだろう。


 Oh ! 大井町、なぜ 大井町......と、わたしならば吉増剛造ふうに言いたいね。
 吉増は、雫石(しずくいし)という言葉に惹かれて、「オシリス--石の神」で取り上げている。

 荒川洋治は、少なくとも「大井」という言葉に、彼独特のテイストを感じたのかと思う。

 地名から分かるとおり、昔は低湿地で、地下水がわき出たり、井戸がたくさんある土地柄だったのだろう。漢字では「井」という、木材を井桁に組んだ井戸の象形文字です。しかし、戦後生まれのわたしたちにとっては水に強い松の角材で組んだ井戸などは皆無で、石組みあるいはコンクリート製の円い井戸しか思い浮かばない。井戸は近隣共同の水飲み場であり、炊事場であった。
 猫だって水飲みにやってきたし、<狼?>だってやってくるものさ。

 ですから、「大井町」という題字そのものから、ある意匠を帯びた<大きな円>というイメジを汲み上げたとしても不思議ではない。

 第一節、「七つ八つ、とさがしたが」は、歩行を表している......、
 (七つめを過ぎて)八つ目の交差点を左に折れて......とか。

 あるいは、八重とか八島とかいう姓の表札を探す行為かな。
 この場合、「七つ」は、口調を整え「八つ」を導き出す枕詞として、添えられた、と。
 七重八重、九重とこそ思いしに......、というわけだね

 これは、実際の話であるのか、実際に歩いたか、ということは問題ではない。

 そもそも、この物語じたい、現実によくある話ではないからね。
 旦那様に「囲われている」という話は、世間によく転がっていて、「あそこの家はお目かけさんの家だ」という話はよく聞くものだ。
 けれども、「女をかこっている」という話は、そうそう世間の口に上(のぼ)るものではない。
 タブーであり、口にするのははばかれる筋合いのことだから。

 それが家族内ではなく、(知られてはまずい親族の)甥である話者にどう伝わり、
 姓名とか住んでいた家の住所なりが知らされ、それにとどまらず、
 当事者でもない者が、その「女」の住んでいた家を探し当てようとする、
 ......などという、あまりに「下世話すぎて、酔狂にもほどがある」行動だ、地図遊びと同じだと。

 さて、第二節は分かりにくい部分ですね。逐語的に解釈をしていくなら、行き詰まるでしょう。
 菅谷さんの解釈も、すこし苦しいかな......。

 けっこう重い長靴を履いたまま、「二本の足を跳ね上げる」ということは、さしずめチアガールか、イケイケギャルが狂喜乱舞しているということでもなければ、あり得ないかと思う。
 「交互に足を......」だったら分かるけれど、「二本の足を......」だから、蹴躓いてしまうのがオチだろうなァ。

 私は、後から読み直して、鮎川信夫の囲繞地(いにょうち)をしきりに思い出していた。

 囲繞地とは、
 民法では「他人の土地に囲まれて公道に通じていない土地(袋地)にとって、その土地を囲んでいる(外側の)土地」を指し、
 刑法では「周囲が柵などで囲われた(その内側の)土地をいう。

 鮎川の詩は、後者を描きながら、前者を浮かび上がらせていると思うのだけれど、つぎのように始まる。

   囲繞地

   あなたは遠くへ行かうとした
   海よ、そして人気のない墓場がある
   地の果てよ そして濁らない泉がある

   ......

   水の音が
   なるほどあなたの剥製の体内から聞こえる
   ...... 

   プラットフォームが岬のように曲がっている
   そしてあなたは広い眺めの外へはみ出ている
   濡れた肩には
   あなたの街灯の滲む光が
   微かに震へている 神経的な
   優しい眼鏡や柔らかい手袋の明日の方まで湿している
   いとしい藻 あの愛着の汐よ
   寒さが体を凍らせるまで

 これは読み過ぎかもしれないけれど、荒川洋治は、「囲繞地」を素材にして、
 「大井町」という、彼流の<言葉のゲーム>を返歌のように対置したかのかなと、
 ......考えられないことはない。

 言ってみれば、戦後詩の解体の一つだ、と。

 それで、「大井町」の第2連は、言葉の意味的なつながりを破棄して、コノテーションのイメジを二重写しのように被せている、という印象を受ける。

 どのようなイメジかと言えば、ずばりセックスのイメージだね。
 一九八〇年代の歌謡曲によく使われた、叙景描写の裏に性的イメジをのぞかせる作法。
 八〇年代アイドルたちの歌詞の裏には、性的イメージが隠されているものが少なくなかった。

 「稚気に通ずるあわいユーモア」、とだけ見ると、
 アセトアルデヒドのような吐き気をともなう頭痛に見舞われるかもしれないね。

 私のイメジでは、囲繞地の典型的なものは吉原(葦の原に造られた新地)など、赤線地帯です。

 鮎川の詩ではそういう趣きはなく、文字通り「孤独からも追い出される」心境が表現されているわけですけれどね。

 荒川の「大井町」では井戸のまわりで猫が毛繕いしたり、ときおり水を飲む音が聞こえるのではないかな......。

 第三節、「女をかこう」というのは確かに、今日では死語に近いのですが、荒川の世代では生きて使われているのを知っているはずです。

 囲うという言い方も、今日なら○をつけるというところを、○で囲うという言い方をしていたと思う。

 世界史でも「囲い込み運動」というのが出てくるね。

 我が国でも、たとえば高校野球など、有望選手囲い込みの正否がものを言うわけだし。

 この詩では、「女をかこう」という意味的な喩から、「大きな円=大井」という像的な喩への転換が、荒川的な言葉使いの新しさなのではないかな。コロンブスの卵だね。

 「終節の9行は、上のような読解の脈絡からすれば」......


 生の円環運動を表している。(丸山圭三郎:談)  ←冗談
 性の円環運動を顕わにしている (小林:断)

 人間、生まれるときも、死ぬときも、ひとりひとりなのだ。
 一緒にいこうね、といって結ばれる男女も、ひとりずつ、毒を飲むように、冷えてゆく。
 特に、男の方が先に、冷えてゆくのが、世の理(ことわり)ではないか。

  ......余の断りにて候(そうろう)。

 言葉のゲームでは、語彙の意味、来歴・故事由来などに責任を負う理由もない、のだ。

 これが、荒川への世の批判に対する彼の反措定なのだといえる。この手があったか......。

  「荒川洋治的言葉の世界(2) 」に続く

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この記事について

このページは、小林由典が2013年5月17日 05:17に書いた記事です。

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