荒川洋治の詩はひねりが効いていて、一筋縄でとらえることは容易でない。であれば、「おひねり返し」の技を磨かねばならないだろう。主要キーワードを列挙し、裏の意味をあぶり出す。
2013年5月アーカイブ
「大井町」を意味的な喩から像的な喩への移行の妙だと評しましたけれど、荒川洋治の詩は基本的に<日常性の仮構>の上に、<非日常的言語空間>を創出する試みだといってよいだろう。
一篇の詩を読んだだけでは、群盲象をなでる解釈になりかねない。特に、言葉の指示表出性を破棄しているかのような詩では、詩集全体で何かの大きな喩となっているということが考えられる。
荒川洋治詩集『遣唐』は、80年前後のアイドル歌謡曲の歌詞を思い出させる。内包するエロチックなイメージを、デノテーションの文脈によって覆っている。デノテ・コノテ・あの手という隠語...
私の知っていた70年頃の詩と、現在的な詩は決定的に違うものになっている、という浦島太郎のような戸惑いから、その変化を確認するために失われた年月を過去から遡行してきた。
抒情の問題が「作者の叙情」から「言葉の上の叙情」に変革されたように、統覚の問題も「作者の統覚」から、「テキスト上の統覚」へと視点が転位した。そして文脈はメタ文脈へ......。
吉岡実から始めることに意義のあるこの書で鮎川信夫を取り上げる意図は、「断片を統覚する全体」という考えの限界が70年代に出てきたという野村喜和夫の言に私が躓いたからだ。
言語学的転回について、問題の存在とその転換という社会現象だけを前回記述しましたが、いまひとつ了解が不十分かもしれないので歴史的な経緯をここで概観しておきたい。
「討議戦後詩」(野村喜和夫+城戸朱理)は狭義の「戦後詩」という枠組みで「荒地」派などから検証を進めずに、「近代」という視点から「戦後詩」の再定位を試みる。近代とは何か?