入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(4)

いったい詩とは何だ、擁護すべきものなのか、そもそも詩は存在するのか。詩に関して様々な言説が際限なく野放図な形で可能である。曖昧模糊として、甚だいかがはしい「詩」なるもの...

 この「いかがわしさ」の中に、実は人間の精神の自由と尊厳の、証しとまではあへて言わないとしても、それと深く関わるものが含まれていると、本能的に感じられる......。

 「詩の擁護」...『海』(1978年12月号掲載)

 ここで、入沢は岩田宏の第二エッセイ集『いただきまする』(草思社、1978年09月)を取り上げ、
 詩の行分けの問題を考える。これは、前回触れた「制度化」の問題と連なっているものだ。

 「なぜ行分けの詩を書かないか」岩田 宏

 「最近では、一般の新聞、雑誌のみならず、詩の「専門誌」さへもが、詩を「埋め草」として扱っている現実を指摘している。特集が主であり、詩は従になりさがっている」

 行分け詩の問題

 「埋め草」の本質=「互換性」であり、
 詩の基本的な特質=「交換不可能性」「反・交換可能性」
 ...と正面から対立するものである。

 この「互換性」は、現代社会の特徴である「特権-秩序-管理」の体系の特質でもある。

「詩の世界は(いつからか)そのような特権の生じやすい細分化された果ての小部落で、
そこには特権のおこぼれが欲しくてたまらぬ<お山の大将>や三下ががごろごろしてい」て、
そこでは「詩の<行分け>」が「細分化された特権-秩序-管理」のシンボルのように、あるいは...
「細分化された特権-秩序-管理」の流れに襲われた小部落の住民たちがこれさえあれば溺れる筈はないと振りかざすちょっとした免罪符のように、みえる。

 むろん<行分け>をやめれば全てが解決するわけではありません。行分けはただのシンボルまたは免罪符にすぎない。要は詩を埋め草として扱う<詩誌>というような珍妙な現象を眺めながら、なお自分(たち)と<秩序>が同質化しつつあることを意識せずに無自覚な習慣と自己満足の方角へ流されてゆく群れから、何とかして離れたいということです。
 私はただ自分の創造という過程=運動の中で、自発性と非互換性のカタマリである何ものかを、特権の獲得とは反対の方法によっていくらかでも実現したいと思うのです。

 岩田宏の見方は優れて構造主義的な掘り下げ方だなと、あらためて感じるね。

 現代詩をめぐる制度の構造を解き明かしているといえよう。

 入沢は岩田cの言表に同意しつつ、次のように述べる。

「それを十二分に承知の上で、しかもなほ作品を追い求め、創り、ひとに示そうとする者は、まさしく「蛇のごとく慧(さと)く鴿(はと)のごとく素直」であらねばならぬ。
 およそ「詩」でないと思はれたところに詩を成り立たせ、つねに自らの殻を破り、
 自らの詩を次々と踏み越えねばならぬ。

 入沢はそのような人として、

 「自らの詩的追求の尖鋭さを決して鈍らせない谷川俊太郎を思い浮かべる」という。
 そしてたまたま、出版されたばかりの『タラマイカ偽書残闕』(書肆山田)を取り上げている。



  「Ⅳ 叫びは音をたてることとは違う」 (谷川俊太郎)
   
   雨は
   叫ばない
   雨は
   音をたてるだけ
   石の上に。

   ハビトゥム テム チャ。

   虫は
   叫ばない
   虫は
   肢をこするだけ
   草の中で。

   ミリル ギジジ クキュ チ。



 詩における果敢にして不屈な冒険者の数は、一人でも多くあれ。

 それが結局は人間を守ることにつながるのだ。

 谷川俊太郎のこの詩は、どこか私の「※しろしめす」に通底するものがあるように思えるな。

 ただし私は「怒れる若者」が、ただ年をとっただけの人間なので、「蛇のごとく慧(さと)く、鴿(はと)のごとく素直」というわけにはいかない、という思いがつよいのだけれども。

 それにしても、岩田宏の舌鋒は鋭いね。詩も痛烈なものが多い。

 「いただきまする」というタイトルは、前著「同志たちごはんですよ」を受けているのだろう。

 シベリア鉄道でロシアを横断した同級生の話では、「同志たち」というのは、列車内での食事を知らせる呼びかけの言葉なのだという。ソ連時代は、「皆さん」という場合、ボルシェビキ(=赤軍)革命(=ロシア革命)の「同志たち」と呼ぶ。

 その歴史的背景を捨象して、直訳すると、歴史的背景を知らない人たちにとってはアナクロニズム的な面白みが出てくる。岩田宏変じて小笠原豊樹という翻訳者の面目躍如です。

 岩田宏の「行分け詩」の話を引用した入沢康夫の心境を慮ると、あたかも明治時代の自然主義文学隆盛期に、孤立を余儀なくされていた蒲原有明らの姿を思い浮かべずにはいられない。

 (安東次男「現代詩の展開」をめぐって)

自らを真実一路の人間と信じ切っていて、概念に安住して惰眠をむさぼる怠惰な精神の(始末が悪い)連中」を指弾しつつ、忍耐をもって慧く詩を書いていかねばならないことを説いているわけです。

 なるほど、先入観に凝り固まった思想と感性を自分の個性だと勘違いしている困った人たちは、知識人たちの周囲にもたくさんいるということですね。

 庶民の中に隠棲する私は周囲に理解されることなど放棄していますけれども、事態は同じだね。

 <盲目ではないゆえに ひととぶつかる>

 わけですけれど、「鴿(はと)のごとく素直」にはなれそうもないので、

 犀の角のように たった一人歩む のみ。

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このページは、小林由典が2013年4月29日 00:00に書いた記事です。

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