入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(3)

優れた詩人と、その他の詩人たちとを資質的に分かつものは何だろうか?入沢康夫にみる常識にとらわれない柔軟かつ徹底的な追求、そして果敢な試みの実践は、常人には及びがたい。

 「異化道断・言語同断」(現代詩手帖1978年4月号掲載)

 言語道断という熟語を入沢らしく<詩的>に組み合わせています。この項を取り上げたのは、その内容についてではなく、彼の「問い方」について寸評するためです。

 一部の優れた詩人たちと、その他の詩人たちとを資質的に分かつものは何だろうか?といつも思うのだけれども、この章を読むと、(その一端かもしれないが)はっきりするのではないだろうか。

 大多数の凡庸な詩作者は、「言葉の芸術である」詩を書きながらも、言葉あるいは言語についてはほとんど何の疑問ももたず、日常(使っている感覚)の延長として使用しているように思う。

 もちろん、メタファーなどの既存の詩的レトリックを用いたりして、いかに上手に表現しようかと工夫をこらしてはいるのだけれど、言葉そのものを疑ったりはほとんどないかのようだ。

 (ここでいう<言葉>とは、いわゆる辞書的な語彙のことではない)

 現在の現代詩は、自分がレトリックの天才だと(誤解して)詩を書きはじめるようなレベルにはなく、はるかに高度で精緻な言語態を実現しているといってよい。

 では、何が違っているのか、そしてそれはいつ頃からなのだろうか。

 これは以前に書いた「現代詩の理解のために」でも触れたように、ソシュール言語学をターニングポイントに進展した「言語学的転換」の内容であり、我が国では1970年代にそれまでの言語観とは180度転換した言語観が先進的な詩人たちに受け入れられはじめ、詩を大きく転換させたと。

 <言語>というタームは、それ以前の狭義の自然言語の枠内にとどまらず、広く<記号>一般にまで枠組みが拡がり、言語学は記号学の一つのカテゴリという位置づけとなったのだ。

 端的にいえば、たとえば法律を法の精神として考えるのではなく言語活動の様態として考える。政治も、経済活動も、言語の問題として考えるわけだね。

 先ほども、「言葉の芸術である」詩と、無前提に書いたけれど、文学や芸術一般も、作者の観念とかこころの問題あるいは審美的な価値という視点からみるのではなく、文字通り「言語の芸術」として捉える、ということになる。(旧来の言語観の反措定である、ということに留意しておきたい。

 簡単に言えば、
 社会の諸問題や文化諸領域のことがらを、言語活動の有り様として内在的に理解しようと。

 これは20世紀に発達した<言語の知革命>によって、初めて切り開かれた地平なのだ。

 これについては、近いうちに順次検討していくことにして、今回の本題に入りたい。 

「異化道断・言語同断」より

「仮に「詩は日常性からの自己異化である」と口にしてみる。するともうそこからでさへ、いくつかの方向に、自問自答がはじまる。たとへば......

1 作品の題材が日常的なものか、非日常的なものか、といふ区別とは必ずしも関わらないのではあるまいか。日常性から強力に離脱しようと志向するが故に、なほのこと日常的な題材に固執するといふ場合は、充分に考へられ、その実例にも事欠かないからだ。

2 用語(語彙)の問題でもなさそうである。日頃よく見かけ、よく用いる生活上の言葉を、作品中に多用するかしないかは「詩風」の区別の上で、一応の目安にはなるにしても、それだけのことではないか。大切なのは、その語の用いられ方(語と語の関わり方、そのような語群に対する作者・読者の対し方)だから。「異化」がどの水準からはじまるか、が問題なのだ。

3 「詩は自己異化である」としては?

 何のため、そしてその欲求の持ち主は誰か。
......異化は、より深い真実と直面するため、その欲求の持ち主とは、作者でありまた読者であると。「判る人には一言で足りる。」

 しかし世の中には、(既製)概念に安住して惰眠をむさぼる怠惰な精神といふものがあって、しかも自らを真実一路の人間と信じ切っているのだから始末が悪い。自己異化の欲求によってゆさぶられるのは、他ならぬ彼らの惰眠の地盤、(既製)概念のベッドなのだ。かうした精神の持ち主たちの愚劣な論議が、往々問題をこんぐらがらせる。

4 「詩」と「異化」の関係と、おそらく通底していると考へられるのは、カミュの「不條理の感情」、そしてサルトルの「嘔吐感」である。

 人は精神を真に活動させている限り、そして何らかの観念あるいは宗教による自己欺瞞に陥らない限り、この「不條理の発見」に立ち至らざるを得ない。

 「詩を書き、詩を読むこと」の端緒をなし、かつそれを維持するのも、この「名状し得ない」体験であり、その反照を失ふとき、それはたちまち失速してしまふだらう。

 作者も読者も作品を常に不條理の中へと追ひ込み追ひこんで行かねばならぬといふことになる。

5 「異化」を、自己の内外で制度化せんとするものからの、果てしない逸脱であると考へることも出来よう。

6 「詩」についても、「日常性」についても、明確な定義があらかじめあるわけではなく、むしろこれらの仮の命題の点検が、かへって、その命題を構成する個々の概念を問うことになるといふ、奇妙な事態が、ここには生じて来る。奇妙な......しかし、こと「詩」に関して何かを述べようとする場合、かうした事態こそむしろ常態だと言ひたくなる。

 しかじかの言明が、詮じつめれば「論理的」でなくても、真実を言い当てているといふケースは、いくらでもある、といふこと。そして、実はこれこそが、おそらく「詩」の存立条件なのだ、といふこと。だから、やや角度を変へて、「詩とはもっぱら問ひつめの能力、それも多元的な問ひつめの能力の謂ひだ」と言ふことも出来よう。

 そして、問題は、問を発することにではなく、問を維持するところにある。答へてはならぬといふのではない。あらゆる答を包含して、なほも解消しない問を、詩を書き、詩を読むことと重ね合はせつづけることが要求されている。

 これは必敗の戦場なのだ。ものみないよいよグロテスクに、いよいよ不透明になりまさるこの場所に、のたれ死を百も承知で、私といっしょにふみとどまってみないか、どうだ、ん?

 <(既製)概念に安住して惰眠をむさぼる怠惰な精神>とは、フッサールがいう先入見と同じことだね。

 入沢康夫はここで「現象学的還元」という考え方に接近しているように思う。
 様々な命題の前提となっている<定義>を疑い、
 先入見であると断じ、
 判断停止をして、
 判断の成立条件を絶えず問い続ける
......という態度を保持しよう、と。

 わたしの考えで言いかえれば、

 詩的創造は惰性やルーティンワークのように書かれるべきではない。
 毎回のごとく未知の領域に出撃して、
 たった一回限りのポエジーに光を与えるものだ

......ということになる。

「異化」を、自己の内外で制度化せんとするものからの、果てしない逸脱であると考へること

......というのは、たとえば「言葉」をアプリオリに与えられている、という無反省な思考を捨てるということになるだろう。

 <所与のもの>と考えることは、「現代詩の理解のために」でも述べているように、
 我が国では(事の端)天与説に結びつき、王権天授説を忍びこませることとなり、
 意識しないまま制度化の奴隷に成り下がることにつながるだろう。

 

 私の習作である「※しるす」に収められた「ノンしゃらん」という詩は、この辺のことを書いているのだね。

「日本書紀」の前提を、問い直すささやかな試み、などと......。

 

   「詩的関係についての覚え書」(4) につづく

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/32

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2013年4月28日 00:00に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(2)」です。

次の記事は「入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(4)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて