入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(2)

物語的詩の試みについて、物語は作者の真の目的ではない、と。物語は一つの「手段」としてある種の触媒のような役割を果たす。何のための触媒か。「詩」の顕現のためだが...騙る主体とは?

   騙る主体(その四)...現代詩手帖1977年10月号

 それは勿論「詩」の顕現のための触媒であるはずだが、この図式、もっとも単純かつ明快と言へさうなこの図式にしてからが、詩的関係の比喩としては、かなり不完全なものにすぎない。

 その「物語」の中に「私」が登場する(直接に一人称形で-また、あからさまにではない形でであっても)場合、
 聴き手の側からすれば、その「私」なるものと、眼前の「語り手」との「同一性」を保証しているものは、じつは、暗黙の了解(習慣=制度によって支へられた)に過ぎない。

  そして、これが更に、「詩における物語」といふことになれば、「語り手」は読者の現前から消える。「書き」「読む」という関係の中では、その作用をなす 「現前の語り手」は不在であって、むしろ、「読者は自分の中に語り手を仮構する」とでも言った方がふさわしい状況が生じている。


 そして読者は、そのようにして「自分の中に仮構された語り手」を、しばしば(習慣的に-といふか、日常会話の場合のいはば残像のやうにして)「作者」と呼び、その「仮構の語り手」を、実在の作者について知識として知っているもろもろの事柄によって補強する。

 そして、言ふまでもないことだが、同時に、この「読者の中の<作者>」は読者の「私」によって、強力に(しかし、必ずしも読者自身には自覚されないままで)磁化されている。」

 「強力に磁化されている」、つまり自分の色眼鏡で見てしまっているということだね。

 詩における「物語」が一元的に確定されないという点に、さらにこだわって入沢は、「現代詩手帖」(1977年7月号)に掲載された岩成達也の文章を取り上げて、「私たちに詩的なるもの、詩性を喚起するもの」の本質を問い詰めようとする試論」である、と評価する。

「ある文脈において意義が部分的に欠如しているということ、あるいは文脈において意義が複数個含まれているということは、詩的関係が成立するための必要条件ではあっても十分条件ではない。
(......)十分条件とは何か。私はそれを<メタ文脈>の存在というように考えたいのだ。

 しかし<メタ文脈>とは何か。
 簡単に言えば、それは文脈での意義の欠如、あるいは文脈での多義にもかかわらず、逆にこれらの欠義や多義に基づいてそこに生じてき、その裡でこれら欠義や多義にある構造を与える一つの擬文脈、超(メタ)文脈のことである。」

「メタ文脈の成立は、文脈の成立に比べてはるかに不安定であり、読者の状態(経験や訓練をも含めて)の準位に負う部分が多く、これがまたその本質的な特徴ともなっている」

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(上の文で岩成が「意義」といっているのは、「意義がある、とか、ないとか」いう意義ではなく、言語学で言う意味論の使い方である。『現代詩手帖』を読んでみると次のように注記されています。)

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入沢康夫
「この文中の「文脈」を「物語」に、「メタ文脈」を「メタ物語(としての擬物語)」に、といふふうに読みかへることは、いささか強引にすぎる気もするが、許されてもいいのではないかと思ふ。

  詩行為の本質的部分に、「作者の側にも読者の側にも、<作者>と<読者>の共存・葛藤-つまりは相互依存-がある」という事実を見たがっている(らしい) 私としては、「メタ物語」と仮に呼んでみているものの成立に関しても、そこで作者が果たす役割に、関心を寄せざるを得ない。

 「詩」を書いているとき「私」はどこに居るのだらうか。」

 岩成達也の「メタ文脈」という提案には、戦後詩からポストモダンへと移行していく70年代のエスピテーメーが背景にあることを見逃してはならない。

 この「覚え書き」を終了した後に取り上げる予定の、『討議戦後詩』(野村喜和夫 城戸朱里)が鮎川信夫の章で検討している大きな問題であるからだ。

 私は、「荒地」派という戦後詩から出発したせいか、作者の持つ「統覚」というものを相当重視していると自覚しています。トリスタン・ツァラのダダや、ブルトンのシュルレアリスムにおけるオートマチズムでも、人の手で言葉が書かれる以上はその人の「顕在意識および下意識の統覚」が何らかの関与をしているはずだ、と。

 それで、メタ文脈ですけれど、これはテクストベースの今日的な言語論に立脚した見方である。

 「作者の統覚」という場合は、「作者-テクスト-読者」という関係性を根底においてあり、入沢康夫と同様古い考え方だといってよい。

 更に進んで、現代詩のターニングポイントの意義を検証していきたい。

   入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(3) 」につづく

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このページは、小林由典が2013年4月24日 17:48に書いた記事です。

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