入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(1)

優れた感性を持つ詩人であれば<ことば>が先験的に与えられた自明のものだとは受け取れないものだ。自然感性で書かれた言葉を疑うところから今日的な詩が始まり、終わりは......ない。

 学生時代に入沢康夫『詩の構造についての覚え書』を読んだ時にはたいへん反発を覚えたのですけれど、本書は納得できる内容だと評価したいと思う。

 前著は1968年に出版されたものであるのに対し、この本は1977年~78年にかけて雑誌に掲載されたものをまとめて、79年末に出版されたものだ。

 この間の入沢康夫の思考の深まりがあり、私自身の理解の深まりもあるのでしょう。

 入沢康夫は最初に「詩の構造についての覚え書」の意図は、

 「詩の作品中で一人称で語っている人物(作者によって仮構された人物)と作者とを混同してはならない、という一点に尽きていたのであり、その他のことはすべてなくもがなだったとさへ思ふ。」

 ...と述べ、当時の詩論は「作者の生き方(伝記)や、作中に陳述されている思念によって作品を云々しているにすぎぬ、という認識を持っていた。」と総括する。

 たしかに、この状況は地方レベルでは今日でも変わってはいないだろう。
作者のライフスタイルが見えてこない」などという批評など、いちいち対応するに値しないものだ。

 入沢はここでピーター・ウォーレン著『映画における記号と意味』を引用し、
「最終テクスト=完成品」という神話を断罪する。

「"近代運動"の大きな影響の一つは、"意図"と"内容"という考えを信じないことであった。(中略)
 必要とされるのは、疑わしい通常のことばづかいをくつがえし、変形させる記号学であった。これによって、信号やテクストは人間と真理、ないし意味-ロマ ン主義思想が持つ観念的・超越的真理であれ、古典主義美学が持つ内在的・意図的意味であれ-との間に存在する手段・媒介物であるとはみなされなくなった。 (中略)
 テクストは作家によって生み出されはするが、単に作家の考えを表示したり表現したりするのではなく、自己生得の権利で存在する。
 それはコミュニケーションの手段でなく、コミュニケーションが存在し得るという神秘化への挑戦である。
 作者もまた読者と同じようにテクストの批評家であり、読者もまた自分自身に問いを発し、自分の意識の幻を打ち壊し、それをテクストの不確定な裂け目へ、矛盾へ、疑問点へと、持ち込まなければならない。」

 以上のような序章を皮切りに、入沢は終わりのない問いへと歩を進めていく。

 今回は「騙る主体(その三)」...現代詩手帖1977年6月号」を取り上げます。
 この章題は「語る主体」の入沢的言いかえであることは断るまでもない。

 作者と読者の有り様を考える場合、はじめに考えなくてはいけないことは「私」とは何か、ということですね。

 私の『詩的世界定位』でも当然のことながら触れていますけれど、哲学的な考察を抜きにしても、作者と私との関係については、十二分に自問する必要があるはずです。
 (言語の表現構造と、哲学における認識のあり方とは、本質的に同一のものなのだ)

「私 の書きつける言葉、私の口にする言葉、私の思考を成り立たせ、私の思考そのものである言葉」は、充分に「私である」ことができるのかといふ問いとなり、更 に要約されて、「私は私である」といふ陳述における二つの「私」は、この陳述の「見かけ」通りに、イコールでぴったり重ね合はされているものであらうかと いふ問いにもなる」

「私の言葉、それは私ではない」
「私の思考、それは私ではない」
「私は私ではない」
「そして、これらの断言が自分の胸の中で、どのような響きを立てるかに、聴き入ってみるのがよい。そして、これらの断言が揺さぶり起こす違和の感覚、その素性を確かめようとすること。」

 この問題は、私が以前講演で「反省以前的コギト」とサルトルの言葉を援用した問題点に外ならない。

 入沢は視点を変えて、問いを続ける。

「なぜ、われわれの詩は、作品それ自体では完結せず、作品外の多くの要素に依存しないではい(られ)ないのだらうか。(中略)
 (さらには、)この問い自体が事実であらうか。大方の合意・承認をとりつけることができるであらうか。」 

 西洋の詩において「詩の自立」ということはごく自然なことのようですが、日本語に纏い付く情緒的な要素とかを考えると、「われわれの詩が、それ自体で完結できない本質を持っているのではないか」という入沢の疑問は、充分に根拠があると思う。

 那珂太郎が「作品それ自体の外にインデックスを必要とするのは不完全な作品だと思う」と発言していますけれど、それは理想であり、畢竟努力目標ではないかなと思いますね。

 吉増剛造が詩の中におびただしい注を挿入したり、鈴木志郎康が詩の後に多くの後注を記しているのは、この問題に関わる試みという意味あいがあるのだろう。

 こうした中で、入沢は『仮面の解釈学』(坂部恵著、東大出版会)に大きな示唆を受けたという。この本は、プラトンから現代哲学および言語学、心理学、民族学、そして万葉集から朔太郎まで日本語を縦横に論じています。

 これを読み解くには、再び長い時間を必要としますので、ここでは取り上げず、入沢の引用部だけをコピペしておきます。(画面をクリックすると拡大)

仮面の解釈学

      「詩的関係についての覚え書」(2) に続く

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このページは、小林由典が2013年4月23日 17:17に書いた記事です。

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