主体意識の変遷(3) 吉増剛造 part3

吉増剛造の朗読は詩人が自作を読むという通常の形ではなく、語り部の吉増剛造が読むという仮構性を帯びている。この仮構性が吉増詩の想像世界を支え、秘教性からも免れる事となっている。

  吉増剛造の朗読はトーキーの弁士というよりは、演劇の一人芝居の方に似ているなと思う。
 昔の絶叫型の時は「全共闘のアジ演説」という趣きがあっただろう。

 だが、宗教たとえば仏陀の転法輪(説法)は、もっと粛然としていたはずで、似てはいないはず。

 しかし、喩を用いて詩の言葉のように語る点では共通しているかな。
 だが仏陀の言葉は生前の声を弟子たちが次述したものであるのに対し、
 吉増の朗読はエクリチュールにパロール的要素を投入した言葉表現行為なのだといえよう。

 言い方を変えれば、ロゴスを基盤にした化構性の問題が、吉増の朗読には内在しているのだと。

 化構性とは、いうまでもなく演劇的要素つまり一人芝居と同様の要素だということだ。
 朗読には、どんな朗読でも化構性はあるのだけれど、吉増の朗読はそれが際だっている。
 これは単にセルフプロデュースの演出の一つだ、というだけで済む事柄なのだろうか?
 それでは余りにも冷淡でシニカルな見方になってしまうかもしれないね。......

 再び、吉本隆明『言葉からの触手』から、「あとがき」を掲載してみたい。

kizuki03.gif 「生命という概念を内面性という概念にかえてとりあげる場所を提供している、ある種の理念」とは奥歯に物の挟まった言い方だ......。
 現在というのは、1989年のことなので、80年代に流布された理念ということになる。
 「理念」という言い方は「思想」という場合と少し違うようで、エコロジー的な考え方の系譜かな、と考えられる。

 それに合致するものとして、たとえばシュタイナー教育があげられようか......。
 シュタイナーは人間というものを(肉体/生命体/感覚体/自我)という重層的な存在と捉える。
 ・肉体の生命活動を可能にするのが生命体であり、
 ・外部を感じ取るのが感覚体であり、
 ・その知覚体験を司るのが自我である。

 子どものもつ生命力というのは、霊魂的に肉体および臓器形成に作用するものである。
 たとえば、幼児期の絵は内面世界の表現であり、臓器器官の形成発展の様子が反映される。

 その期間が過ぎると、この生命力は身体を作ることから離れて、学習する力へと変化してゆく。
 内面的(霊的)な力が自然にはたらいて、立ったり歩いたりという成長をもたらす、......と。

 あるいは1973年にディープ・エコロジーという概念を提唱したノルウェーの哲学者、アルネ・ネス(Arne Naess)の理念とも受け取れる。
 彼の環境哲学は問題の原因を社会構造のもつ前提そのもの、つまり人間性のあり方に求める。

 機械文明の進歩というものは、実は人間の欲望の限りない追求に外ならず、
 その限りでは、資本主義国であろうと社会主義国であろうと、環境問題に違いはないわけだ。
 したがって、環境問題は制度の改革ではなく内面性の改革という長期的視野で考える、......
 ......というのがネスコの考え方である。

 その内面性の改革ということで、提示されている規範は次の2つである。
 ・自己実現
 ・生命中心的平等

 ここでいう自己実現とは、決して自己啓発のカテゴリーでいわれる願望実現型のものではなく、
 人間(だけ)が見失ってきた自然の声あるいは地球の声を聴くことの出来る感受性を恢復し、
 個々人と宇宙・大自然とのつながりを感得できる(気づき)意識を身につける、ということになる。

 つまり、エコロジカル(外部的)な気づきというのは、じつに精神的・霊的(内部的)な気づきに基づかなければ片手落ちだろう、と。

 アルネ・ネスの提唱は1973~80年代にかけて次第に欧米を中心に広がり、前回ふれたアメリカのサイケデリック・レヴォリューションなど、ニューエイジ(霊性復興)思想・運動や、先住民研究(歴史的な変遷を、地域的な特質に見いだす方法)などを派生させる。

 こういう理念は、ルネ・デュボスの『成長の限界』を40年前に読んで、生態学的生命科学の分野に進んだ私には、にはさほど違和感がない。

     『のに、詩書く魚海のプラナリア』 (2010年5月の習作)

 福島第一原子力発電所事故のほぼ一年前に、こんな習作の詩を作っていたわけですが、
 「人間が変わらなければどうにもならない」という悲観と怒りがこもっているね。

 けれども、スピリチュアル革命となると、いささか微妙な問題を含んでいるかもしれない。
 基本的な理念は悪くない、むしろ立派なものなのだけれど、
 ウルトラ・サイエンスのようなものも、その風潮の中には紛れ込んでいるかもしれない...。

 慎重に取り扱わねばいけないことは確かだけれど、そういう<意味合い>なのだろうか?

 なにはともあれ、
 「生命の活動を精神の働きとして包括できる緒口は、言葉の概念の中に含まれている」
 ...という吉本の指摘は、これだけでは分かりにくいものがある。

 吉増剛造の詩は、言葉の化構性によって、
 「秘教的な詩人に群がる信者たち」という括りから免れているといってよい。

 詩の朗読にはロゴスの問題がつきまとうだろう。
 ここでいうロゴスとは、「初めにロゴスありき」という場合の「言葉」だね。
 <論理>というより<言葉>なのだ。

 ソシュール言語学の音声中心主義に見え隠れする言語帝国主義的要素について、
 ジャック・デリダは、表音文字言語の形而上学であり、
 「それは根本的にこのうえなく独自的かつ強力な民族主義であって、
  今日では地上全体に自己をおしつけつつある」

 ......と、論理構造をひっくりかえしたのだ。 『根源の彼方に―グラマトロジーについて』

 「詩人の魂魄とゲニウス・ロキとの激闘」と規定した『王國』の頃の吉増の詩は、
 確かに「地上全体に自己をおしつける」がごとき要素が垣間見えるものだったろう。

 各地の土地の精霊とぶつかり合うという魂魄の持ち主は、すなわち、......
 デカルト的コギトが肥大化したものであるといってよい。

 吉増詩のファンの中には、初期のつまりこの頃の詩の方が良い、という声は少なくない。
 多分若い人が多いのだろう。
 60年代詩人の面目躍如たる否定性・破壊性・毒性みたいなものに惹かれるのかと思う。

 

 けれども、2001年の『剥きだしの野の花』などを読むと、
 リズムの魔に吹かれるような趣はなく、非常に微細な感受世界の記述に終始している。

 詩人の魂魄と精霊の激闘」という趣の事柄はすっかり影を潜め、
 「精霊の痕跡」を感受していこうとしているようだ。

 この変化は、何に由来しているのだろうか?と考えれば、自我観の変化なのだろう。
 詩人の魂魄と精霊とは激闘はおろか争うこともなく、
 細心の注意深さ(想像というよりも感知にちかいもの)で、
 他者の、心の微弱な波だちを聴こうとしているのだね。

 この変化は、固定的に捉えた(認識論的)自我観から、
 関係性によって構成された(相対論的)自我観に変化したことを示している。

 この世界の多層性に気づき、それを言葉の世界へと再-創造するという吉増近年の詩は、
 東洋的な無私の魂にいったん立ち戻り、
 「心の弱い波だちを聴く」という感受性の通路を少しずつ取り戻すことで成立しているように思う。

 多層的な世界に通底するためには、細かな差異のそれぞれに通路を通そうとするべきななのか、あるいはガイネーシス的な受容をこそ回復すべきなのか。
 たぶん、無私の心の中に流れ込んでくる微細な精神的(霊的)波動に気づくことが必要なのだ。

 そうして感受しうるものを言葉にしていく作業はけっして一気呵成なものにはならないだろう。

 「絶えずくぐもった音声でぶつぶつと独り言をつぶやいている精神の病気、あるいは反対に音声をまったくなくして緘默(かんもく)している精神の病。......
 ......こういった精神の病は、病むことでなにをしようとしているのか?こんなふうにして、人間は草木や虫や獣の世界へゆく入り口を探しているのだと思える。ただたんに精神が現実から撤退したいのなら、おしゃべりや書き言葉の脈絡だけをうしなえばいいはずだ。

                        (吉本隆明『言葉からの触手』......3 言語 食物 摂取)

 たいへん微細な感受性の世界であり、言葉のありとあらゆる表現性を繰り出し、なおかつ読者にはどのように伝わるのだろうかという配慮も求められる。

 語りえない世界に半歩ばかり踏み込んでいるようで、1980年代の課題として、提示して、「自我の変遷」についてはひとまず終わりにしておきたい。

 【 追記 】  「言葉からの触手」再読(予定)、につづく。(新しいウインドーが開きます。)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/41

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2012年6月28日 15:41に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「主体意識の変遷(3) 吉増剛造 part2」です。

次の記事は「入沢康夫「詩的関係についての覚え書」(1)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて