主体意識の変遷(3) 吉増剛造 part2

前回、鈴木志郎康の辛辣な批評を読みながら、吉増が語った「圧倒的に無理な姿勢」という言葉を思い出していた。吉増の言語表現は、リリエンタールの羽ばたき飛行機のごとく離陸し続ける。

 飛翔し続けるのではない。離陸し続けるのだ。羽ばたきをやめれば、即座に墜落する、という無理筋を承知で突き進む。

 詩を書く人間が、方法的なことを意識し始めると、一度は言葉の発生や詩の発生というものに想いをめぐらせることになるだろう。

 詩の発生は、大いなるものへの畏敬の念を表白することであったり、
 祭りの際の謡(うたい)であったり、あるいは
 宗教的な儀式のなかで唱えられることばであった。

 詩は本来的に口唱するものであったのだから、 活字を読むスタイルに変貌したことで失われた、
 原初の言霊的生命力あるいは言葉の響きというものを追体験し、
 その有り様を回復させようと考えるのは理由のないことではない。

 私もまた、歴史的に日本語の起源についての検討とか、古代日本語の音韻だとか、
 あるいは、地理的にアイヌの言葉、琉球弧の言葉、標準語の元となった江戸言葉とか、
 さらには、霊言といわれるものやシャーマンという発話者の内部と外部とのあり方とか、......

 言葉の本来的な姿を確認したいという欲求をもって、資料収集を欠かさないでいる。

 私の感覚では、
 霊魂の世界観というのは、「ある種の勘によって外延された想像力の世界」......
 ......ではないかな、と。

 いわば「一種の脳の幻覚作用、いや想像的視覚化作用」の世界なのか、と考えている。
これは、あくまでも仮説のままなのですけれど、いずれ言語学的なテーマで検討してみたい。

 さて、前置きはこれくらいにして、吉増剛造の詩から引用してみよう。

kinokuni.gif 今読み返すと「よく言うわ」という気がするのだけれど、1973年に出版された詩集であることを考慮しなければいけない。
 吉増はここで、自ら措定している『王國』の旅人として、セルフプロデュースをしているのだろう。
 作者の、いささか言い訳がましい感じがするけれど、その気持ちはよくわかる。

 吉増剛造は「後世において渡り鳥になりたいという熾烈な望みによって保証されているのだ」というファンタステイックな理由を掲げて、自分の魂は根源的に軽いのだ、と宣言している。

 宣言であって、理屈ではない。論理ではない、と受けとるべきだろう。
 「吉増劇場」開幕の前口上である、と。

 こういうのを読むと、なるほど詩人というのは私のように手の内をさらけ出してはいけないのであって、吉増剛造のようにセルフプロデュースをして己のポジショニングやイメージつくりをしなければいけないのかな、という気にもなってくるね。これもまた、広い意味での「默説法」なのではないかな。

 それで吉増はシャーマンとしての自分を位置づけて、シャーマン的に振る舞うわけだ。

 私は生命科学を研究していた頃、いわゆる霊能者という方たちと接触をする機会が少なからずあり、神道系の霊能者さんとか、チャクラを開発するヨガの導師とか、新新宗教の教祖さんとか、
 実際に指導を受けて修行してみたり、いろいろお話を伺ったりしたものだ。

 けれども、一緒にいる他の人たちがハハー!と感心したり、飲んでいる酒の味が変わったりとか、
 邪気をはらったり、伊勢神宮で光の柱を幻視したりとかいうことは、一切なかったのだね。

 ヨガの導師は、「あんたはどうにもならん人だ」と、さじを投げたように言い放ちましたけれど、私は他の人に感化されにくい人間なのかもしれないと感じる。

 けれども決して即物的な人間ではなく、ラジオやテレビを視聴していて、ふと「この力士が勝つな」とか、「この投手はここで打たれるな」とか、インスピレーションが働くことを頻繁に経験する。
 つい先日も、朝方の短い夢で「誰かから帳票を手渡されいやな気分になる......」ということがあった。受けとったのは縦長の紙片である。

 この時は、北川透の『詩的レトリック入門』を読んでいて、何か詩の断片なのだろうか、とか詩のことに関連があるのかな......と、顕在意識は解釈しようとしていた。
 けれども、ふと毎日のように通っている工業団地内の道路のことが気になって、息子の車に装備されている道路情報が分かる装置で、ねずみ取り情報を知ろうと尋ねてみたのだけれど、その道を知らない息子が場所を分からず、話はうやむやになってしまった。
 ところが、その次の朝、いつものようにそのワインディング道で、急な下り坂になっているところをいつものようにノーブレーキで走り降りたところ、待ち構えていた白バイにスピード違反の反則切符を切られてしまったのだ。制限速度を20キロ以上オーバーしていたからね。

 それよりも驚いたのは、手渡された反則切符こそ夢に出てきた帳票そのもの(のよう)に思えたことだ。
 ちゃんと予感があったのだけど、現在の関心事である詩に結びつけて考えてしまったために、警告が生かされなかったのではないか、などと納得してしまう。

 ぼんやりしているときの直感というのは素直に解釈できるのだけれど、
 他のことで頭を使っているときはその事に引き寄せてしまうので、見当違いになるのだろう。

 それにしても、シャーマン的な感覚というものは、少なくとも私には分からないのだ、といってよい。

 私の感覚からいえば、吉増剛造はシャーマン的な情報を大量にインプットすることで、シャーマン的な感覚世界を擬似的に獲得するという方法をとったのが、この『王國』の表現世界なのだろう、と。

 たとえば、『燃えあがる映画小屋』のなかで、吉増は「(対象を)かたどる」という言い方をして、それは土方巽から学んだような気がする、と語っている。
 そしてそれは、萩原朔太郎もそういう人だったし、中世の明恵上人もそうだった、と語っている。

 ここで私は「そうかい?」と、あることを疑ってしまうのだけれど、
 私はカルロス・カスタネダの書籍によってそのような感覚世界を知った経緯がある。
 カスタネダはレヴィ=ストロースの影響を受けた構造主義人類学者なのだろう。

 時の輪彼は現代のシャーマンであるドン・ファン・マトゥスの世界を調査して、10数冊の本を出版している。 
 構造主義人類学者らしく現地で生活を共にして、シャーマンの修行をするという実践に裏付けられたシャーマンの言葉を採取しているのである。

 マトゥスは、古代メキシコのシャーマンに連なる系譜に属するシャーマンの第一人者の一人といってよい。

 「見ること」は身体知である。身体知とは「身体が知っていること」であり、われわれの中の視覚の優位性が、その身体知に影響をおよぼして、眼と関係があるように思わせている。」
 (実際は、違うのだ、ということ)

 「エネルギーの場として見るとき。人間は光の繊維のように、白くて薄い光のショールを纏っているかのごとく見える。その腕も脚も、四方八方に放射する輝く毛のごとく見えている。」

 「見る者には、誰であれ人が何かに触れるとき、それは手を使っているのではなく、その人間の腹の真ん中から飛び出している長い繊維の束で触れていることが「見える」のである。」
 

 これは、対象を「かたどる」というのと同じことを言っているのだね。ドン・ファン・マトゥスの説明は具体的であり、概念的に簡潔に言えば「かたどる」ということになろう。

 以前腰痛でお世話になった整体の先生はゴッドハンドと言われるかたで、身体に触れることなく、
 うつぶせで横になっている患者の身体に沿って手をかざしていくだけで、
 どこが悪いのかが分かるのだった。
 シャーマン的な感覚を持っていたのかもしれないと思う。

 さて、カスタネダの仕事は、1970年代初頭のアメリカにおける、若者たちの精神革命=反戦平和・人権保護・人間性の回復(サイケデリック・レヴォリューション)に少なからず影響をもたらしている。
 実はピンクフロイドもサイケデリック・サウンドの流れを汲んでいるのだね。

 そういう時代状況のただ中でアメリカのアイオワに留学している吉増剛造が、カスタネダの仕事を知らないで過ごしたとは考えにくい。「かたどる」という言い方は、マトゥスの表現の吉増的翻訳なのではないかと思えるな。

 そういう経緯があったからこそ、土方巽の舞踏にマトゥスと似たような視覚感受を得たのではないだろうか。
 いずれにせよ、そういう情報が吉増アルシーヴにはしっかりと収蔵されていたのは間違いない。

 と、ここで、Amazon の書籍案内メールが来て、
 吉本隆明『言葉からの触手』(1989年河出書房新社)というタイトルになぜか惹かれて、即入手したのですが、......

言葉からの触手 この本から、ひとつ引用しておきたい。 (画像をクリックすると拡大画像がポップアップします)

 吉増剛造の演出は、知らない人がみればある種の神秘主義や新宗教に見えるかもしれない。

 事実、『燃えあがる映画小屋』のイベント(アテネ・フランセ文化センターでの連続講演)で、
 ある映画通(狂)の人に、「これは【秘教的な詩人】に群がる「信者」の集いではないか」......
 ......と言われたと、編集者が記している。

言葉からの触手 私は、詩の表現行為における想像世界であり、作者の演出なのだと受けとっていたけれど、
 実によいタイミングで吉本隆明から重要なメッセージを受け取ったような気分だ。↓↓

    ※ 【瀰漫(びまん)する=一面に広がり満ちること。はびこること】

 なるほど、ある種の察知や気づきの型ね......。
 吉本は、さらに虫だとか動物と交感する類の気づきについても言及していた。
 ということは、
 シャーマン的な気づきの型というのもあるのかもしれない......。

 事の真偽を詮索したい気持ちもなくはないのだけれど、表現の問題として追及していく方が大事なので、寄り道はしないでおこう。肝心なのは「言葉」なのだ。

     「主体意識の変遷(3) 吉増剛造part3」につづく

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このページは、小林由典が2012年6月23日 23:23に書いた記事です。

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