主体意識の変遷(3) 吉増剛造 part1

吉増剛像は近代的自我における「主・客の対立」という存在の謎に対し、モダニズムに就くのではなく、アメリカ留学時代に知ったであろうシャーマニズムという古代的自我に自己企投していく。

 吉増剛造 『燃えあがる映画小屋』を読むと、吉増の想像力の主な源泉が映画と旅と人間関係から来ていることが理解される。

 私が感じ取っていたことは大筋で妥当だったかな、ということなのですけれど、もう少し細かいところが見えてきたと思える。

 この本は、
 ・映画鑑賞とのコラボで詩の朗読と講演になっており、映画を見ていない人には大半はわからない「楽屋話」的な話が少なくない。けれども、過去の自作品についても、語っているので、「そうだったのか」という発見があるだろう。

 『剥きだしの野の花』を読んだときには、細かい文字の割り注だらけで、 読みにくくて、最後まで付き合いきれないという感じで、途中で投げ出してしまった。

 この本を読むとわかるように、
 1センテンスに込められた意味について、それぞれ1頁の注釈がその背後に潜んでいる、と。
 (これは比喩的な言い方で、量的なデータを示したものではないことをお断りしておきたい)

 吉増は「アルシーヴとしての読書」などという言い方をしていますけれど、
 「アルシーヴ」というのはフーコーの用語だね。本来は複数形でしか使われない言葉で、
 英語で言えばarchives (古文書や記録、あるいはそれらの保管所に相当するものだ。
 フーコーはこれをあえて単数形で使うことで(『知の考古学』)、
 「諸言表の出現を独自な出来事として支配するシステム」と、新たな意味を規定したものだ。

 ある解説によると、
 要するに、「諸言表を整序する諸規則の集蔵体」を意味するものと考え、
 この単数形の「アルシーヴ」に「集蔵体」の訳語をあてた」ということなのだけれど、......

 「要するに」......に、なっていないね。
 私が、我田引水のそしりを顧みず言ってしまえば、ようするに、......
 「時代を支配するエピステーメーにおける、個的な諸・言表(エノンセ)を生み出すシステム」
 ......なのだね。

 余計に意味不明になった、か......。

 ここで押さえておきたいことは、
 知の獲得としての読書ではなく、一次資料(記録)の集蔵としての役割の一端を読書に求める...、ということだ。
 そのような未整理の記録から、吉増剛造的連想が生まれる、と。

 だが、まてよ、......
 未整理の記録というものは、私たちの頭脳に収蔵されると、
 主として頭脳の海馬が無意識のうちに自動的に整理して、記憶領野に引き渡す、
 ......という頭脳のシステムがあるではないか、...

 そして、私たちがある事柄について思惟したり注目するなど意識を向けるときに、
 海馬はそれに関連する記憶の整理作業報告書を夢やインスピレーションとして、
 現在意識に報告してくる、......ものだ。

 そう、物書きという人種は職業的経験から、
 ある程度自覚的に海馬からの<インデックス完了>メッセージを読むことをやっているわけだね。

 
 問題は、そこから先にあるのだ。
 たとえば、これまで私はあるインスピレーションに導かれたワンフレーズから、
 一篇の詩を組み立ててくることが多かった。
 その場合の統覚は、自ら信じている世界観や知覚の世界に基盤を置いている。
 これは近代的自我のなせる技だといえようか。

 けれども吉増剛造の方法はシャーマニズム感性で、座禅の経行(きんひん)のごとく、
 ある種の瞑想状態、あるいはリズムの入眠作用に乗って<ゾーンに入る>ことにより、
 海馬通信を連続的に受けとる、というプロセスを踏んでいるように思える。

 このばあい、思考は連想の連続であるという原理を優先させて、
 「書かれた言葉」という対象化をあえて拒否して、話者としての自己を保持しようとする。
 言ってみれば、シュルレアリスムの自動筆記の吉増的試みだといえるだろう。

 ここで問題となるのが「自動的筆記をしているわたし」とは何者なのか?ということなのだ。
 この問いかけをペンディングにしたまま(忘れずに)で、考察を進めていこう。

 パロールからエクリチュールへ、という現代思想の流れに反して、このような
 アンシャンレジュームを行くのは、朗読を追求する吉増の当然の帰結なのだ。

 そもそも、吉増剛造の朗読というのは、秋山駿がするどく指摘したように、
 トーキー映画の弁士の口調から来ているらしい。(年代がわかるね)
 無声映画については、チャップリンやキートンの映画を思い出すとよいだろう。

 事実、この本の中で、ということはそれに先行するイベントにおいて、彼は......

 「映画から詩に向かってはみ出して行った。映画の不思議な時代遅れの弁士みたいな、ちょっとずつ遅れた声を聴きながら、文字を追っかけて来ていました。
 (中略)
 映画を作るようにして書いている。普通の書物とはちがう書き方だ、......ということに」

 
......と、述べている。映画から詩に越境してきたのだ、と。

 『オシリス、石ノ神』も、
 背景となっているのは実際に近鉄南大阪線に乗って、大阪と奈良の県境を通る風景。
 そこで、昔観たエジプト映画を想い出し、
 映画館の暗い中でメモを取る習慣からきているらしく、
 電車に乗りながら自動筆記を始めて、そのまんま書いていった、という。
 さらには、ジャズ・ベースとの共演からリズムを受けとって、朗読をしている結果として、
 筆記に不思議なリズムが加わって書かれている、と。

 なるほど、彼の詩の映像性は、映画からの越境であるからなのだ......。

 けれども、私はこの時期の吉増剛造の詩を読むと、
 イメージの展開が恣意的すぎるように感じ、
 時にはリズムに乗りすぎているように感じ、
 どこか上滑りしているような印象がしてならないのだね。

 鈴木志郎康は「吉増剛造詩集『王国』を読んでいろいろと思った」(『極私的現代詩入門』)で

 「わたしは毎日逃れようもなく、うすよごれた地上にべたべたへばりついた生活をしているだけに、この日常性を拒否した意識の空間を持ちたい気持ちになるのも無理はない、というような理解をさっそくとりつけてしまうのであった。」と、評している。

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詩を朗読することには意義を見いださない、生活者的な鈴木志郎康と、演劇的に朗読する吉増剛造では、正反対のポジショニングを占めているといってよいだろう。
 「勿論、わかろうとしてはいけない」ようですね。

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oukoku03.gif 「初心者の書いたものへの、視線のやさしさ」を持つ鈴木志郎康だが、コンテンポラリーの詩人に対しては非常に手厳しいものがあるね。

 まあ、素人さんが何を書いても、とうてい「脅威」を感ずるほどのことはないけれど、
 同じ60年代詩人の代表選手の一人である吉増となれば、真剣勝負にならざるを得ない、
 ということなのでしょう。

 吉増剛造は、この『王国』において、まさにその冒頭の言葉のように、......

 朝霧立ちこめ 狭霧たつ 地獄の扉に向かって、歩を進めたのだろう。
 彼は、決然としてシャーマニズムの世界に分け入っていく。

  ウラル、アルタイ、シベリアの、蒙古、中國東北、そして朝鮮巫女(シャーマン)の呪詛し
  北アメリカ、朝鮮巫女の美しい処女が呪詛する巫女(シャーマ))ニズムをほめたたえよ

 明らかに近代的自我以前、いわば先祖返り的感性の枠組みで詩を書いている、といってよい。

 長くなりすぎたので、次回に持ち越したい。

      「自我の変遷(3) 吉増剛造 part2 」に続く

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このページは、小林由典が2012年6月18日 23:22に書いた記事です。

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