2012年6月アーカイブ

吉増剛造の朗読は詩人が自作を読むという通常の形ではなく、語り部の吉増剛造が読むという仮構性を帯びている。この仮構性が吉増詩の想像世界を支え、秘教性からも免れる事となっている。

前回、鈴木志郎康の辛辣な批評を読みながら、吉増が語った「圧倒的に無理な姿勢」という言葉を思い出していた。吉増の言語表現は、リリエンタールの羽ばたき飛行機のごとく離陸し続ける。

吉増剛像は近代的自我における「主・客の対立」という存在の謎に対し、モダニズムに就くのではなく、アメリカ留学時代に知ったであろうシャーマニズムという古代的自我に自己企投していく。

自我について正面から扱おうとすれば主観と客観という二項対立二・律背反の論議に陥る。私の関心事は言語表現と作者・話者との関係であり、霊魂観をパラメータに自我の有り様をみていく。

記紀歌謡から新体詩そして口語自由詩へ、言葉は変化していったが、それは事の端に過ぎない。言語論的には(表現)主体意識の転換がなされたと言うべきだ。西行、藤村、吉増と検討する。

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