鈴木志郎康「極私的現代詩入門」(5)

詩人が言葉を書くトポスは内面世界と外面世界との接触する臨界であり、今流行りの言葉でいえば現代詩的言語の「絶対領域」なのだ。吉本隆明が「魂を千里移行する」と表現した乖離の構造的風景...。

 鈴木志郎康はそれを乖離の構造だと受容するのではなく、「詩が実在であり、現実の生活は虚構である」と認識論的に把握しつづけたのだと。

 私は勤め先では単に労働力を売る人間として死んだものであり、家に帰って詩を書くという時点で初めて生き返るものということになったのである。
 この時点で、私の書く詩の言葉は、それ以外のいわば死んだ私自身の身体に向けての、敵対と攻撃以外ではなかったのであった。
 だが、この転倒した考え方を持たなければ、私は自分の生命を伸ばし得なかったと、自分を弁護しないではいられない。

 この辺の自己執着はきわめて倫理的であるというか、あるいはナルシスティックであるというか、確かにある意味で極私的なのだ。

 詩であれ小説であれ、文学というのは、大なり小なり共同規範社会に対する反抗あるいは否定という「毒」を持っているものだ。
 正確な記憶ではないが、金子光晴が「(社会に対して)腹が立ったときしか詩を書かないのだ」と語っていたけれど、要するに社会に向けて怒りを表明するというのが普通なのかと思う。

 けれども鈴木志郎康は自己否定という形で、日常性を生きている自分を否定する、というわけだ。
 これは全共闘的思考の名残あるいは後付けの姿勢という要素も考慮しなければいけないだろう。

 だが、やがて鈴木志郎康にも往相から還相へ、振り子が振れるように成熟が訪れる。

 もしも、私が自分の個体性(=詩の世界)を社会に対置させるという言葉を肉体化すれば、世捨て人となる他ないだろう。
 しかし、私はとても家族を捨て、親兄弟を捨て、友人を捨てて、さらには社会的な活動からすっかり身を引いてしまうということもできない。
 現在では、生身の私の方が詩に勝っているから、詩が私に要求する運動に身を任せることをしないのである。

 鈴木志郎康のこの変化は思いがけないところから始まる。
 職業としているカメラマンとしては、自分が表現したい映像を追求するということはNHKでは殆ど出来ず、我を通すこともせず、一種の諦めと無能の中に生きてきた日々。
 ところがある時、16ミリシネカメラを手に入れ、自分自身の映像意図を実現する映像を私的に生み出すことが可能であることに気付いたのだ。

 私が自分のものとは全く考えられなかった16ミリ映画が、自分の表現を実現するものとして可能になった途端に、自分が身につけていながら自分自身のために役に立たなかった技術が自分にとって生々としたものになってきたということなのであった。
 それは私が独自に映画を作る作らないに関係なく、その撮影の技術を生かす対象であるところの現実の様相までもが私の目に新たな意味を持ち始めたのであった。

 全くこのことが、今私が書いている詩についても言えるのではないかと思ったのである。
 現実そのものの意味をどのように自分のものとして捉えるかどうかは、実は言葉の技術によるのではないかと考えたのである。

 勿論この場合技術といっているのは、単なる技巧のことをいっているのではない。そして、それは芸というものでもなく、現実への認識を触発し、現実の中に身体をすべり込ませる一種の科学とでもいうべきことなのだ。         「詩は一つの技術というものではないかと思い至る」

 
 だいぶ省略して引用したので、なにやらあっけない転向のように受けとられかねないのですが、この人らしいああでもないこうでもないと悩み考えた末の、この時期における一つの結論だね。

 鈴木志郎康はこの後も変遷をしてゆくのだけれど、方法論的な意識を持っている詩人はどんどん変化していくのは当然だろう。

 
 その一方で、あくまでもオーソドックスな詩作を堅持する大岡信のような詩人もいる。
言語というものはやっぱり常にものすごく太く洋々として流れている大河のようなものだと思う。
 現在(1990年代)の状態は、なんか言語への触り方が一面的でおかしいんだと思う

 と、大岡は言う。
 ここには、二人の個性だけではない時代的な変化という背景があるだろう。
 この『極私的現代詩入門』は1970年代半ばのものであり、大岡の発言はそれから20年後のものなのだから。

 けれども、「私」をめぐって、両極に振れた鈴木志郎康の経験は、充分に参考になるのではないだろうか。現在みられる「私詩」という現象は、志郎康さんを通過していなければならないように思える。

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このページは、小林由典が2012年5月14日 23:47に書いた記事です。

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