鈴木志郎康「極私的現代詩入門」(4) 作者と話者

「純粋処女プアプア」ではなく、「売春処女プアプア」であった。思い描いていたイメージも全然違っていたのには、自分自身で驚いている。なぜこんな読み違いをしていたのだろうか?

 

 学生時代にプアプア詩を読んだ時には「何だかよくわからないが、氾濫する非秩序的言葉が、小気味よいリズムで連打されて、面白いな」という印象だった。
 「プアプア」という言葉が示すものが何かは不明のまま、楽しく読んだのだ。

puapua02 その後、私は結婚し子供も生まれて、妻が赤ん坊に躾をする育児風景を見て、連想したのだね。
 「ああ、純粋処女プアプアが家庭訓的あいうえおを行っているわい」と。

 元の詩を正確に読んでいれば、この場面では、
 「売春処女プアプアが、純粋処女プアプアに家庭的アイウエオを行う」と連想するはずだ。
 売春処女プアプアは→貞淑な人妻プアプア、と反対語表現として成立するのだが、
 夫婦間に発生した非日常的言語存在である赤ん坊は反対語の対象とは未だなり得ず、
 「純粋処女プアプア」(のまま)でよいのだ、と。

 母子の光景を目撃していたのに、いつの間にか母親の存在が希薄となり、
 私の眼差しは直接に娘の方にショートカットしていた、というわけだ。

 とすれば「純粋処女プアプアが家庭的あいうえおを行う」という無意識的な間違いは、じつは
 私の深層意識を表す立派なパロディになっているのだ、と極私的に理解したのであった。

 さて、話を元に戻そう。
 「極私的自己批判の手掛かり」という題の通り、この文章は自己批判的に書かれている。
 自己否定や自己批判という言葉は60年から70年の政治の季節のキーワードといってよい。

 一人の表現者として成立した私であるが、自分自身について重大な誤認を犯していた。
 敢えていい切ってしまえば、「プアプア詩」は作者を必要としない
 しかしその他の詩は表現者の表現に過ぎないものとなっているのに、私自身は、
 その表現が作品として、現実に対峙しているように思い込んでいたのだ。

 それらの言葉は作者である表現者を介してのみ理解される言葉なのだ。
 このことは、近代以降の個人主義にあっては避けがたいことなのかもしれないが、
 それは孤独な魂を育むのにはよいかもしれないが、
 文学的営為をますます矮小化することになってしまうであろう。それは良くないと思うのだ。

 だからといって、文学的営為がひとっ飛びに個人を越えたものになってしまうのもよくない。
 私の文学的営為の出発は、個人の同一性と偶然性を救出するものとして、
 意識内のことをより一層本質的なものとしたところにあったのだった。

  だがそれが表現として成立すると、
 その表現者と表現がそのままそっくり全体の中にすくい取られていて、
 文学的営為は私個人のものとして矮小なものとなり、全体は安定を保っているのである。

 全体の安泰の中で、私自身が一般化していくことは、それは一種の犯罪であると思う。

   
 この最後の問題は、以前に取り上げたボードリヤールのいう「まがいもの世界や世界にかかわっているというイマージュ」と基本的に同じ感触だ。

 現代社会の日常性は、そういうものをいともたやすく神話化して、神話作用の中に初発にもっていた意義を閉じ込めていく。そういうものにぶつかっていたのだろう。

 もう一つ、より基本的な問題として、「極私的」にこだわる鈴木志郎康の世界観と詩的表現の乖離について、同一性を求めること自体が非生産的な執着(しゅうじゃく)ではないのか、と思えるのだ。

 この言い方は、東洋的な無私の思想を背景として述べたものだ。

 西洋思想的にいえば、意識から始まる認識論の限界に突き当たっている、と。
 いってみれば、我が国の70年代的認識の世界なのだね。

 鈴木志郎康の到達したコノテーション優位の言語表現は、構造主義以降の現代思想を前提としてスタートしている現在的現代詩作家たちによって、新たな言語表現として成立しているのだ。
 ここでは、無意味として提出した内容が、意識内に存在する意味体系のありかを示しているものとして表出される言葉の方がメインとして扱われる。
 いみじくも吉本隆明が評したように、
 言葉を意味として扱う言語表現は、ここでは(表現者として)何もしていないに等しいのだ、と。

 ただし、この間には80年代から90年代の変遷があるので、一気に飛び越すわけにはいかない。

 先に取り上げた1998年秋の『midnight press』から、関連記事を寄せ集めてみた。

 辻征夫
 現代詩はかつて自由詩といっていたのに、そのへん不自由になっちゃっている。
 あくまでも僕、僕、僕というね...。俳句では他者になりかわる度合いが非常に簡単なのに。

 大岡信
 主語が現代詩は重すぎるんですね。僕はなるべく使わないように努力してますけどね。

 吉増剛造
 『現代詩手帖』98年6月号の書評で守中高明さんが、
 「詩において一つの『作品』を生み出すことが、他のいかなる次元における人間の営み=労働においても見いだされないような圧倒的に『無理な姿勢』(吉岡実)をその主体に強いるということ―」
 ...と書いていて、これはとても納得の行く言い方で、なんかあたらしい思考の角度いうか光を眼にしたように読んでいました。

 辻征夫
 詩に惹かれていったときは何かを読んで、言葉の魅力にとらわれて、それで詩というのはこうなんだと思ってなんとかやってきた...

 大岡信
 言葉自体のおもしろさはもちろんあるわけだけど、(戦後詩だとか荒地だとか)それ以前に扱っている主題が全然違うでしょ。その主題がうんと強調されているから、どうしてもついていけなくなっちゃうのね。言葉を越えてその向こう側(作者)までいかなきゃならないというので、あの人わからないと思っちゃうんだよ。(中略)

oooka01.gif 話がかみ合ってない感じもあるけど、
(1) 意識による認識論であるデカルト的コギトの旧世代においては、「私」意識が少なからず問題となる。

(2) 現代思想以降では、いわゆる自然体で書くという前提にある「私」が限りなく相対化されており、圧倒的に「無理な姿勢」を作者がとる、という無理筋を追求せざるを得ないところがある。

 ということになるだろう。自然的感性と現代的感性の違いも、ここに含まれている。
 「近代以降の個人主義」と鈴木志郎康がいっている認識論は、70年代にミシェル・フーコーらの構造主義によって徹底的に否定され、ジャック・デリダらによって脱構築されて、社会的視点あるいは相対的視点へと変容していったプロセスがある。

 荒川洋治は「方法として突出させるためには、ある程度、自分の体質とか能力に目をつむってでも行かなくちゃならない。」ということを語っていましたが、自分らしさとか自分の感性だけにこだわっては単眼思考であり、現代的な感性の根拠とはなりえないのだ。

           「極私的現代詩入門」(5) に続く
 

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このページは、小林由典が2012年5月11日 23:18に書いた記事です。

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