鈴木志郎康「極私的現代詩入門」(3) 言語感覚

言語感覚といっても範囲が広いので、過不足なく定義することはなかなか容易ではない。ここは極私的に話を進めよう。たとえば、私がひとの詩を読んで違和感を感じ指摘する場合、それは...

 ...正誤の問題というよりもその人の言語感覚の問題と考えている場合の方が多い。これは、その人の言葉のキャリアに係わってくるので、指摘してもどうにもならないという感慨を感じてしまうのだね。

  鈴木康之少年はものを書く人にみられる心的な内面性重視の生活を意志的に続けることで、プロフェッショナルな詩人となっていったようだ。
 吉本隆明の言葉でいう個幻想と共同幻想の相剋を、共同規範社会からの疎外と受けとめ、それを言葉によって全体に向かって表明するのだ、と考える。

 1964年に『凶区』を創刊した頃の鈴木志郎康の創作意識は次のようなものだった。

 生への欲望が私の頭の中に生み出す純粋な空想と私自身の現実の生活との間に争いを起こさせる、そのような言葉を現実に投げつけるというようなことをしていた。
 はじめは自分の頭の中に浮かんだイメージを、それに対して何ら批判的な態度をとることもなく、言葉にして書き記したものであった。昼間の他人との関係のなかでの生活に対して、いわば夜の孤独な意識だけの時間と空間の確保ということであったのだ。

 しかしじきに、私はそういうイメージだけを言葉にするだけでは満足しなくなった。恐らく、それではその言葉によって開拓される空間が私自身の偶然性と同一性を持ちえないということに気付いたからなのであろう。 (「極私的自己批判の手掛り」より)


 「その言葉によって開拓される空間が私自身の偶然性と同一性を持ちえないと、気付いた

 ここで言う「偶然性」とは、本人が引用した『凶区』(創刊号。1964,4)の中にある、次のようなことを意味しているのだろう。
 「私は、心の奥底か胸の内の真実か又は私の肉体の何処かわからないところから出てくる言葉を叫ぶか記述するかしたいのだ。それは何万年も何千年も語り伝えられずに伝わり伝わって私の中に充満したようにも思えるのだ。」

 (極私的といいながらも、アノニマスな言葉をイメージしている点は、じつにオーソドックスな詩人観を持っている)
 鈴木志郎康の言語感覚を感じるのは、内部と外部の対立を感じて、それをそのまま言葉にしても、自分の表現すべき世界とは一致しない、ということを冷静に見て取れる、という点だね。
 何かが違うなと感じ、それを執拗に追求していく姿勢が非凡なところだ。

 いくらでも詩が書けるというアマチュアは、自分の表現を「こんなモンだろう」と、曖昧にケリをつけるか、あるいは「何かが違う」と感じ取る能力が鈍いか欠落しているのだろうね。
 意識しないで使う変な言葉使いとか、自分の使う言葉が意図しない意味を孕むことに思いが至らないとか、時代錯誤的な言葉を使うとか、使い古された言葉を知ってか知らずか平気で使うとか...
 言語感覚と言うほかないのだけど...。

 極私的自己批判はさらに続く。

 そして、その次の段階へ進んだ私の詩は、
 私の頭の中に生じた空想的イメージと現実の生活とが争うその場面を言葉にしたものとなった。


プアプア詩

 「壁土になる以外にない
 学生時代にシュルレアリスムに親しんでいた鈴木志郎康にとっては荒唐無稽な表現ではなく、強い現実否定の表現として悲現実的なイメージ(=内的イメージ)が提示されているものだ。

 次の詩 『月』 は「言葉使いが変」と思う人はいないだろう。
 明らかに、意図的な表現であり、無意識に書かれたものでないことは誰にでも了解できる。

 作者自身の説明を聞いてみよう。

 意識内のことを、(現実)より本質的なものとみるところから生まれる別の意味体系は、文法にも侵入していくのだ。
 「私」は作者自身の現実的な存在を示し、
 「人妻が」は作者のイメージのありかであり、
 「手淫して」は孤独な生のあり方の暗示として置かれ、
 「いた」はこれらの意味が作者の意識内に現象したことを示しているのだ。

 別の意味体系というのは、広い意味でのコノテーションということになる。

 この詩は確かに昔、強いインパクトを受けた記憶がある。
 私は三行目にある「女性重労働者」という言葉に着目して、
 同じ『凶区』の同人であった天沢退二郎の反対表現の、更にパロディではないかと考えた。

 簡単に言ってしまえばホワイトカラーの男性、つまりサラリーマンを揶揄的に表現しているなと。
 それは、とりもなおさずNHK職員であった作者自身の姿であり、
 マスターベーション的抒情を否定して私詩を書く試みあるいは言葉の実験である、
 ...と宣言しているように受け止めたのだね。

 
 再び、作者の解説を紹介しておきたい。()内の言葉は、私、小林が補足したもの。

 (前時代的な言語感覚の持ち主が)このセンテンスを読めば、
(1) 「私は手淫していた」と
(2) 「人妻が手淫していた」と、
 ...二様の意味の合体ととるか、

 または、「象は鼻が長い」式のセンテンスと同じものとして、「私は、人妻が手淫をしているようなものであった」という意味にとるだろう。

 それは読者にとって、言葉というものの意味を捉えるには、何かしら現実の事象を手がかりとする以外にはないからなのだ。

 だが、ここでは作者にとっての現実の事象は、このセンテンスが現実においては無意味を意味するということ以外ではなく、その無意味として提出した内容が、意識内に存在する意味体系のありかを示しているものとなっているに過ぎないのである。

 それは、作者の無内容な表現というものなのである。これはまさに、私の、言葉に対する拝物的迷信の結果以外ではないのだ。

 赤い文字の部分は、現在的な現代詩人、たとえば稲川方人などの言語表現に近い感覚で、鈴木志郎康の先駆的な業績として評価してよいだろう。
 詩として充分な結実を見せてはいないけれど、方法論的には午後とは行かないまでも、正午くらいに到達していたのだな、と考えられるね。

 方法の正午、15歳の少女はプアプアである、というわけ。
 鈴木志郎康のプアプア詩の連作が開始される。

   十五歳の少女はプアプアである
   純粋桃色の小陰唇
   希望が飛んでいる大伽藍の中に入って行くような気持ちでいると
   ポンプの熊平商店の前にすごい美人がいるぞ
   あらまあ奥さんでしたの
              「私小説的プアプア」より

 プアプアという無意味な言葉は、作者の無内容な日常生活を自虐的に表象するものであり、
 その外延を埋めるようにして日常の個人的な出来事や思いを言葉にして埋めていく、
 ...という詩の表現方法。

 鈴木は言う。

 私はここで、ようやく自分をとりまく現実を方法論的に対象化し得たのだった。
 私の書く詩が私の意識内のことから出発していても、私の主観の範囲を超えたものとなり得た。
 それは、私の詩の言葉が一つの虚構として自立し得たことでもあった。

 その後、私はここで掴み得た虚構的な言葉を連らねる詩を書き続けた。
 当然その言葉は現実的な意味を担うものではなく、
 私の意識内の価値体系によって支えられた意味を持つもの
 ...として展開していったのである。

 
 逆立する内部世界と外部世界とが相渉る「神橋」のような象徴物として、
 プアプアという言葉を編み出し、
 強固なリアリティーを持って内部世界を形づくっている言葉と意識を外部に、
 つまり「神橋」を渡らせて一人歩きをさせた、ということになる。

 なるほど、わからなくもない。
 我田引水になるけれど、自分のHPで自分のことを書くのだからと、言い訳をしつつ書く。

 「夕日のガンマン、ソーラン節」の中で、私は内面に実在物のような風景となっている騒乱の記憶を長い間書きあぐねていたのだ。
 混乱あるいは混沌、しっちゃかめっちゃかの光景をどう書いたらよいのか?と。

 そのような時にドゥルーズのリゾームという概念を知り、
 反射的に吉増剛造のあの書き方は多分にリゾーム的であり、
 「混沌を混沌として」詩を破綻させることなく、世界を相対的かつ総体的に捉えるのに有効だな、
 ...と納得したのだね。

 そして、
 吉増剛造は、たとえば「朝霧立ちこめ狭霧たつ地獄の扉へむかう」というキーワードを提示して、非現実的内面世界であることを提示する。

 この部分がないと、リアリズムの意味的な詩だと読んでいるのに、いつの間にか作者が想像の世界に遊んでいるようで、読み手には意味不明という書き方をする素人が少なくない。

 私の場合は、
 「―― お前の 死の 余情を 楽しめ」 という言葉が不意に湧いてきたのを渡りに船とばかり、
 狂乱的言語世界との結界を示すしめ縄のように、この言葉を置いて、
 内面の、混乱したままの過去の記憶を「死の余情」という象徴語で表し、
 内的混乱を無理に論理立てず、混沌を混沌のまま言葉にして提示する、
 ...ということにしたのだね。

 方法論的には相通じるものがある。

 ただし、吉増にしても、私にしても、その状況設定はその詩だけの一回性であり、鈴木志郎康の
プアプア詩のような連作とは考えはしなかった。
 プアプア詩は、うまくいっているものもあれば、無理筋ではないかという詩も少なくないと...。

 いま、プアプア詩を読み直してみると、殆ど読んではいなかったのかなと思うほど見覚えのない詩ばかりだった。
 それで、唯一暗記をしていると思っていた行は、何処にも見つからないことに狼狽するばかり。

 それは、「純粋処女プアプアが家庭訓的あいうえおを行う」というものだったはず、なのだが...

          「極私的現代詩入門」(4) に続く

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このページは、小林由典が2012年5月10日 23:11に書いた記事です。

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