鈴木志郎康「極私的現代詩入門」(2) 想像力の金縛り

「何故こうも表現しようと意図して、いわゆる作品というものに至れない人々がたくさんいるのか?」...... という答えは、このブログの各所で提示しているかと思う。何が問題だと、鈴木志郎康は?

 じつは今回の記事のタイトルがその答えになっているのだね。

 「想像力の金縛り」

 想像力は誰にもあり、想像力を働かせて表現しようという意欲は大衆の中に溢れているように思える。
 それほど多くの人々が作品を作るということをやっていながら、そこに出てくる作品の殆どのものが駄目だということは、それらの人々が自分自身の表現を持とうとする努力よりも、既にある専門家が作った作品に似せようと努力しているからなのだ。

 実際、三千篇の詩を見て、なんでもっとこんな詩らしい詩ではなく、自分自身にとってリアルな言葉とリズムとを見つけ出す努力をしないのかと思ってしまう。
 しかし、それが出来ないのだ。
 そこに、彼らの想像力を金縛りにする作家たちの作品があるからなのである。現在では、その金縛りを脱出しなければ、新たな作家として登場することが出来なくなっているのである。

 その金縛りを脱出するということのためには、既にある作家の作品のいくばくかを知って、乗り越える努力をしなくてはならないし、さもなくば知恵を働かせて裏をかくというようなことをしなければならないのだ。

 前者の、乗り越えるなどということをするには、いわば専門家の道を歩むことが必要であり、それには定まった職業を持ち人並みの生活をしていたのではなかなかできないことであるし、
 後者の、裏をかくなどという仕方を身につけるためには一般的でない生活か、または生活の一般的でない認識が必要となってくるのである。

 私自身も、昔こういうことを考えたことがあったね。私はルーティンワークというのが大嫌いだったけれど、周囲の人間をだまし続けてサラリーマンのフリをし続けるためには片手間仕事はできない、と感じていた。
 つまり、片手間で詩を書くこともノーであり、仕事の方を手抜きして趣味に精を出すということもノーだと。
 実際、仕事をしていた時分は二十四時間ビジネスのことを追求していた観があるね。

 ところで、鈴木志郎康自身は当時NHKのカメラマンとして仕事をしながら、人付き合いをせずにその時間を詩作にあてるということをやっていたのだ。
 そのへんの葛藤というのは第一部の「極私的現代詩入門」に描かれているわけですが、私からみるとNHKだから出来たのだ、という有利さも大きかったと思う。
 ノンフィクション作家の柳田邦男さんもNHKの職員としてさまざまな事件の現場を取材しながら、仕事に押し流されることなく独自の調査を積み重ねて作家としての基盤を築いていったようでした。
 当時のNHKは、大名行列のような取材陣と長期間の現地ロケとか、時間も資金も潤沢に使っていたからねェ。民間零細企業のように、自宅には寝に帰るだけという過酷な勤務と慢性疲労の状況とは、天国と地獄くらいの差があったと思うね。

 話を戻そう。金縛りという事態は、すでに専門的に作家となっている人にとっても同様のプレッシャーであることは言うまでもない。以前に取り上げた鮎川信夫との対談でも、もう男性の書くものは書き尽くされた観がある、という感慨が述べられていたのを思い出してみればよいだろう。 
   「弱者犠牲で成り立つ人間社会(2)

 作家は自分の想像力を金縛りするものを素早く見て取ってこれと立ち向かって、それを切り開いていくという作業をしているのだ。作家が次々に作品を生み出していく作業そのものが、その金縛りを断ち切るということなのだといえるだろう。
 作家たちは常にもう書けないという自覚の上に立って書きはじめるもののことなのだろう。
 それに対して、アマチュアは常に書けるのだ。彼らには金縛りの自覚がないからなのだ。
 それは支配されている民衆が支配されているという自覚をもたないのと同じなのである。

 作家は全く孤独に自分の想像力の開ける道を歩む以外にないというところに追い込まれているのが現在なのではないかという気がする。

 全くその通りなのだろうと、私も同感する。
 60年代の詩人たち、つまり吉増剛造や天沢退二郎、鈴木志郎康、渡辺武信らを「目の上のタンコブ」と、私が常々評しているのは彼らの詩的営為こそ私にとっての金縛りであるからなのだね。

 私は四十年間の空白を、年代を追って埋めていく作業を進めるというきわめてオーソドックスな営為を続けている最中だけれど、ようやくそのパースペクテイヴの中に彼らを見いだすことが出来るところまで歩みを進めてきたように思う。

 「全く孤独に自分の想像力の開ける道を歩む以外にない」のだ。

 墓石の下で昭和初期あたりの詩を書いて褒めあっているような連中と交わるのは時間の無駄なのだと思う。
 たとえば、起承転結などという形式にカチッと収まるようないかにも詩らしい詩を書いている作品を読んでも、終わっているな、という印象しか得られないのだね。これ以上の伸びしろがないと思う。
 スタイルが固まってしまっているのですね。つまり、精神的に硬直している結果しか見いだせない。
 

 「金縛りの自覚がない」というのは、たしかにそうだろうと思う。ただし、「既にある専門家が作った作品に似せようと努力しているからなのだ」とは言えない部分も少なくない、というのがわたしの印象だ。

 つまり、先達の作品を一通り読むという「勉強」などしていない、というのが実態なのだろうと思う。
 自分では、独創的な作品を生み出したと、うぬぼれているけれど、それは既にだれかがやっていてそれに気づかないだけ、というお寒い現実が殆どなのだろう。まあ、かくいう私がそういう経験を何度もしているから、ねェ。

 要するに、めくら蛇に怖じずということわざ通りの素人が大多数だ、といえばはっきりするだろう。

 前々回に、私は荒川洋治の詩のパロディを提示してみましたが、実はこのパロディという方法は、まさに
 「金縛りするものを素早く見て取ってこれと立ち向かって、それを切り開いていくという作業」に外ならない、
 ...のだな。

 マジメに真似をしてはイカンと言っているはずだ。
 ははー!といって拝受するのではなく、パロディとして解体し自家薬籠中のものとして取り込んでしまう。
 後は、忘却に任せればよい。「私」は忘れてよいのだね。
 「私」の内なる頭脳の番人が、阿修羅の手の一つとして勝手に劍を振るってくれるのさ。
 できれば、阿修羅ではなく千手観音のような手の一つとなれば、超一流になれるかも?
 (なんか、トンパ文字以来、絵文字好みになってしまったか?)

 まあ、勉強しない限り、金縛りを切り開くことは出来ないことは確かだね。
 多少の文才や感性で詩が書ける時代は昭和初期で終わっているはず。

 さらに言わせてもらうなら、「金縛り」以前の、言語感覚が全く駄目ということの方が、はるかに目につくのだ。
 一流の詩人というのは、例えば散文を書いてもうまいし、評論を書いても鋭いし言葉も美しい。短歌を試みても、俳句を詠んでも一流なのだね。エッセイを書いても、雑文を書いても、面白いし、奥深くセンスもハイレベルだ。本職顔負けの文章を書けるのは、ひとえに言語感覚のなせる技なのだろう。

 そのへんのすばらしさを感じる例として、さらに「極私的現代詩入門」を読み込んでいこう。

          「極私的現代詩入門」(3) に続く

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このページは、小林由典が2012年5月 9日 12:43に書いた記事です。

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