社会的な存在としての詩

今日的な詩の世界に入ってゆくにあたり、戦後詩の大切なメッセージを再確認しておきたい。
 それが、今回のタイトルの意味である。

 「弱者犠牲で成り立つ人間社会(2)」で、鮎川信夫と鈴木志郎康の対談を載せましたが、鮎川の功績として評価されることのひとつが「詩を読者から、あるいは社会から孤立させまいとしたこと」
 ...にあるということです。

 北川透は「体験的規範の解体」の中で、次のように書いている。

 詩が徹底して個の深みに根ざすことが、同時に社会的に存在しうる方途であること、
 ...が、戦後詩--そのひとつの代表としての「荒地」においても、追求されたのだと思う。

 詩は孤立することによって、社会的な存在価値を問われなくてすむ。
 他者やジャンルを超えた異質なものの眼によって、批判もされなければ、選択もされない、
 ...ということだろう。

 読者の関心を失い、詩を書く人が同時に詩を読む人でしかない、自閉的なところに陥りつつあることを危惧しているのである。

 現代詩が社会的に存在するためには、それが個的な契機に拠りながらも、現在--現代を課題にするということが不可欠だろう。それをわたしは詩や詩論のレベルだけでなく、同人誌などの詩的メディアのレベルでも、様々な場所で問題にしてきた。

 
 戦後詩が終焉を迎え、大きな物語が消滅し、
 その後の詩は戦前の「四季」派のアンシャン・レジュームであってはならないのは当然だが、
 ポストモダニズムの意匠をもって戦前のモダニズムが内在していた決定的な欠陥である、
 「社会的連関の欠如」まで、無自覚に復活させるべきではない。

 再び、北川透の言葉をたどってみよう。

 体験や経験という語が、詩を成立させる重要な概念として、登場したのは、戦後詩においてである。
 戦前においては、萩原朔太郎にしても、西脇順三郎にしても、その他のモダニズム派、プロレタリア詩派、そして「四季」派の詩人の詩論においても、こうした概念はまったく意味を持っていない。

 いわば、戦後詩は体験を不可欠な要素として成立した世界である、と言ってもよい。

 それでは、戦後詩の体験の論理は、何を核心にして成立していたのであろう。
 わたしは、それが「疎外された心情」というものでなかったか、と思う。

 現代文明、現代社会が発展するほど、それを生み出してきた人間が社会から疎外されることを、
 私たちは今、否応なしに身に染みて感じているはずだ。

 わたしはIT技術職にあった時期もあり、情報技術がとんでもない歪んだ社会をつくり出している」今の現実(の裏側)...を、戦慄を以て直視している。

 けれども大多数の人は、今の社会がどうなっているのか、ほとんど察知することができないでいる。
 ということは、すでにはるか遠く、現実社会から脱落していることに気づいていないのだね。

 でなければ、このたいへん危機的な社会状況の出現を前にして、
 牧歌的田園詩あるいは万葉的花鳥風月詠、あるいは
 内閉的自意識の円環で自己充足している詩を、のほほんと書いていることはできないだろう。

 そのような大状況でなくとも、時々報道される孤独死を、
 たまたま発生した偶発事故的悲劇としか思えず、
 自らの表現が問われているのだ、という認識も起こらない「終わった人」でしかないのだ、ね。

 この日常性のただ中に、粛然と進行している地獄を見出すことのできない感性では、
 意味のある、価値のある表現など、生み出すことはおぼつかないだろう。


 北川透の言葉は、戦後詩の世界からの、苦言的メッセージであると、受け止めておきたい。

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このページは、小林由典が2012年4月 5日 12:02に書いた記事です。

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