リゾームの諸相と現代詩表現(2)

現代思想は相対主義を追求する。その相対主義のあり方がリゾーム的なものであり、ツリー型の体系をもつ従来の哲学と決定的にたもとを分かつ。現代詩もまた、単一の声ではないことを模索する。

  ギリシャ哲学以来西欧世界が堅持してきた、求心的で統一的な世界観は、近代哲学の大巨人ヘーゲルに至って天にも届こうかというバベルの塔を構築するまでに至る。

 しかし、
 現代思想のリーダー達は、観念論型認識という土俵の外を舞台として場外乱闘をはじめたのだ。
 「真理とは何か?」という哲学の命題そのものを、「もはや無意味でしかないもの」と拒否して、
 人それぞれの(相対的)価値観という、バトル・ロワイアルに変えてしまったといってよい。

 土俵の中は約束事や決まり事、禁じ手などでがんじがらめであり、
 土俵という固定枠から勇み足をしただけで、負けになってしまう。
 この息苦しさを逃れて、新鮮な空気のなかで深呼吸したい、と......
 がんじがらめの抑圧を打倒・打破して、新しい街作りをしたい!

 そういう解放への欲求が氾濫したのが1968年のフランス、パリの五月革命だった。
 アメリカではこれに先立つベトナム戦争に対する反戦平和運動があり、
 中国では毛沢東革命に対する反革命を根絶やしにしようという整風運動が紅衛兵の蜂起となり、
 日本では反大学学生運動と70年安保闘争が巻き起こった...

 国や地域によって、きっかけや直接的目的は異なるけれど、根底にあったのは、
 それまでの社会のありかた、および自分自身のあり方、
 ...の根源的な変革を求めるという意志であった。

 これら一連の闘争を通過して視えてきたことは何かというと、
 「バベルの塔のごとく歴史的に構築されてきた建築物というのは、壊そうとしても壊れないものだ」
 ...という、歴史の持つ重みだった。

 とくにヨーロッパでは、哲学そしてキリスト教の強力な伝統が支配しており、その支配構造がもたらす閉塞感もまた重大なものであった。

 けれども、この経験を通過してきた者にとって、
 思想というものは決してアカデミズムのなかで命脈を保っている抽象的な知の体系などではなく、
 今、ここでという現実の生き方を問う、古くて新しい「倫理的」な営みに外ならないものであった。

 フーコーを初めとする構造主義の担い手達はそれぞれに1968年パリ五月革命の思想家なのだ。(構造的知については、過去4回とりあげて、未完のままになっており、その続編は別稿に譲る)
 この構造主義の成果は、80年代以降の現代思想に受け継がれてゆく。

 現在的な現代詩を解釈したり、現在に立脚して詩を書く場合、
 この時代変化についての理解は不可欠なのではないかと思う。

 なぜなら、前回少しばかり挙げたように、第一線の詩人たちは程度の差こそあれ、現代思想の問いに対する、それぞれの受け止めを詩の形と表現において表出しているということが挙げられる。

 私は常々、60年代の詩人が目の上のタンコブのような感覚を持っていることを表明してきたが、
 敵わないなと感じていた彼らの思想的なバックボーンは実に構造主義思想、とりわけ現代思想の巨人であるミシェル・フーコーの思想であることがはっきりと分かったのだね。

 結論を先に言ってしまえば、
 今日の現代詩は詩作者たちが現代思想をどう受け止めているかを理解しないと、正しく読めない、
 ...ということがひとつ。
 現代詩を正しく読めないということは、今日的な詩を書くこともできないだろうということに繋がる。

 もう一つは、不易と流行という昔ながらの考え方で現代思想の影響をみなすならば、
 将来的にも時代錯誤の遺物的表現しか出てこない、ということになるだろう。

 「不易」とされてきたものが不易ではなくなり、
 「流行」と考えれてきたものが、単なる流行ではなく、根底的な変革の始まりなのだね。

 自分は不易に拠っており、現代思想は単なる流行だと考えたなら大きな誤りとなるだろう。

 なぜなら、構造主義以降の思想・文化・社会の有り様は、2000年間続いてきた類型的世界観をうち捨てたところで始まっているからだ。
 とはいえ、前時代の哲学が全く無効だということではなく、その大系を組み替えていく、脱構築という形でそれぞれの根拠を獲得するという一面を持っているからだ。特に、現象学の考え方は、十分正当に検討されたとは言えず、むしろ、現象学的な基盤の上に、現代思想の認識・思考を展開していくべきではないだろうかと、私は考えている。

 上記の2点を認識しておかないと、今日的現代詩の世界に入る事はおろか、理解することもできないのではないかと思うね。

 反省以前的なデカルト的コギトの立場に立って、
 自分の捉えうる世界だけに限定して、
 起承転結的な類型化された構造の中に押し込め、
 独我論的な結語や抒情に収斂してしまう
 自己満足的に閉じられた言葉、閉じられた知、閉じられた世界、
 ...の詩、しか生まれてこない、という危機感を感じるだろう。

 多くの詩人が範とする谷川俊太郎を例に挙げれば、現代思想に影響を与えた
 ソシュール言語学、フロイト~ユングの無意識世界、フーコーの思想など、構造主義から
 ドゥルーズの欲望とリゾーム、ジャック・デリダの脱構築などなど、実によく換骨奪胎して
 自らの詩に取り込んでいるということがわかる。

 谷川の詩は分かりやすいといっている人たちは、自分の無知を知るべきだね。
 といっても、私はソクラテス的な物言いをしているつもりはありません。

 無知とは何も知らないということではなく、むしろ積極的で強固な誤謬の織物だ......と、
 私ではなく、バシュラールが申されております。

 プロフェッショナルな詩人たちの表現を取り上げ、現代思想の影響を読み解いていこうかと考えていましたが、詩の批評から外れていってしまうかもしれない。

 重要な問題と取り組んでいると考えられる先進的な試みをしている詩人の作品を、折に触れて取り上げ、随時検討していきたい。

 

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このページは、小林由典が2012年4月21日 20:08に書いた記事です。

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