リゾームの諸相と現代詩表現(1)

現在的な現代詩の世界に入るに際して、現代思想について俯瞰する時間をとりました。インテリジェンスの高い一流の詩を読むには、現在のエピステーメーへのシフトを知っておく必要がある。

 リゾーム( rhizome)というのは、ジル・ドゥルーズが『千のプラトー』で用いて有名になった言葉。
 デカルト的「ツリー型」の哲学大系に対する概念で、地下茎的な、中心も始まりも終わりもなく、多方面に錯綜している状態。

 たとえば、インターネットの構造が、どこにも中心がなく、それぞれが特異的である個体の、
 ネットワーク的なつながり...を持っている状態であり、リゾーム的なイメジをよく表しているだろう。
リゾーム

 それで、諸相と表現したのは、
 現代思想がデカルトからヘーゲルに至る認識論を否定して相対論にシフトしていったけれど、
 その思想は決して一様ではなく、あたかも『モードの体系』のごとく、差異の連鎖になっている、
 ...ことを表したかったわけです。

 現代思想を語ろうとすると、どうしても用語の説明が多くなってしまうのですが、
 『モードの体系』というのはロラン・バルトの著書名です。
 ここでは現代思想そのものが、様々なる意匠とでもいうべきモードのリゾーム的集積を成している、ということですね。

 もっと具体的に述べていきましょう。

 「人は誰も複数の声を所有している/所有されている。
  そして、多くの場合、ひとつの声を選びとり、残りは忘れてしまう。
  自身の複数の声に忠実に聞き入ろうとするにはどうすればよいのか。
  ロラン・バルトの編み出した方法は、自らを隠喩化することだった」
 (現代思想入門)

 なるほどなるほど。
 荒川洋治が「今の詩には「私」の数が足りない」と言っているのは、
 なにも精神分裂症になれといっているのではなく、
 自己の内にある複数の声を使い分けよ、ということですから。
 比喩的言い方を、勘違いする人がいるといけないので、捕捉しておきましょう。 

 Roland Barthes(1915 - 1980)『零度のエクリチュール』渡辺淳・沢村昂一訳 みすず書房(1971)
 エクリチュールとは書き方、書かれ方、転じて書き言葉という意味で、
 話し言葉のパロールと対比してもつかわれる。

  『零度のエクリチュール』は、当時盛んになってきたヌーヴォ・ロマンの歴史的背景へのみごとな分析となっている。
 零度のエクリチュールのなかでバルトが取り上げたかったものは、
 ピリオドやコンマといった、それ自体では意味を持っていない記号(ゼロ記号)の、
 表現としての可能性ですね。

 なるほどなるほど。
 吉増剛造の句読点の使い方は、零度のエクリチュールだったのだね。

 ところで、
 私は「古典力学(4)」をまとめようとして、どうしてもまとめられないことに躓いていました。
 ところが「オシリス-石の神」を読んで、この書き方ならば書けるのか、ということに気づきました。

 吉増剛造の詩は初期のものと、現在のものと、形式的にさほど変化はないように思っていましたが、
 違っているのですね。

 初期の詩は、連想の連続という印象を受ける。
 でも、「オシリス」の構成は、リゾーム的ではないだろうか。
 ドゥルーズーの思想を、詩の形であらわしている感じがする。

 まさに「解けない問いを生きる」表現形式なのだね。
 ヘーゲルまでのツリー状認識論ではない相対論的世界観。
 これを詳しく言おうとすれば、たいへん長くなりますので、いずれ機会をみて取り上げてみましょう。

 それで、リゾームのことなのですが、以前ふれた鈴木志郎康と鮎川信夫の対談ですね、
 鈴木志郎康が語っていることがまさに「リゾーム」論なのかと思う。(現代詩手帖1986年9月)

 なるほどなるほど。
 Gilles Deleuze
 『リゾーム...序』 豊崎光一訳、朝日出版社(『エピステーメー』臨時増刊附録、1977/単行本、1987) 
 『アンチ・オイディプス──資本主義と分裂症』 市倉宏祐訳、(河出書房新社、1986)

 鈴木志郎康さん、雑誌 『エピステーメー』を読んでいたのでしょう。
 エピステーメーというのは、ミシェル=フーコーが独自の意味を付加して使った言葉であり、
 「ある時代の社会や人々の生産する知識のあり方を特定付け、影響を与える総合的な知のあり方」というぐらいの意味です。

 これは、たとえば入沢康夫の『わが出雲、わが鎮魂』にまつわる多くの人たちのディスクールが、
 ひとつのエポックを形成していることを想起すれば良いかと思う。

   借りものの まがいものの
   出雲よ
   さみなしにあはれ

 この詩以降の現代詩においては、ゲニウス・ロキが意味を失うという、影響をもたらしたわけです。

 この頃から浮遊する言語とか浮遊するシニフィアンという言い方が盛んに語られたのですが、
 現代社会を記号論的に分析したボードリヤールは、シニフィアンというものをシニフィエと切り離して考察を加えました。

 例えばビートルズの長髪はある種の反権威主義というシニフィエがあったし、
 ジェームス・ディーンのジーンズもまた反体制・反権威というものを表していただろう。

 しかし、これらのものが再度、再々度(回帰的に)流行しても、もはやシニフィエは纏ってはおらず、
 ひとつの記号として消費されていく。
 ここには、解き放たれたシニフィアンが顕現して、たとえば「おいしい生活」のようなイメジのみの軽妙な魅惑をふりまく。
 けれども、そういうイメジはどんどん使い捨ての消耗品、言葉でいえばフローの言葉になっていくのだろう。

 現代社会の日常性は、そういうものをいともたやすく神話化して、神話作用の中に初発にもっていた意義を閉じ込めていく。
 ボードリヤールは、そのような過程を「まがいもの世界や世界にかかわっているというイマージュ」
 ...と表現している。

 【 追記 】

 「出雲」は、「借りものの まがいもの」であり、「 さみなしにあはれ」だと、入沢康夫は詩の発生の仕方を追求した。

 私としては、この詩以降のエピステーメーに加わる者として、持論を提示しておきたい。

「まがいもの」という言葉...
 これは、辞書的な意味でのみ理解したのでは、今日的な意義を見いだせないのではないか、と。

 ボードリヤールのいう「まがいもの」とは、言葉を変えると「超越性」ということなのだね。
 超越性、あるいは外部。これは、何を内部とするか、その枠組みの設定によって、変わるものだ。

 物事を固定的に考えようとする旧来の思考法では、ここから先はついてこれないだろう。

 枠は何でもよい。市民社会であるとも、エピステーメーであるとも、わたしの意識であるとも、それを論じているわたしの意識であるとも、自分の肉体であるとも、現代の消費行動といってもよい。

 「わが出雲・わが鎮魂」では、伝統的詩歌観をひとつの枠あるいは規範と措定し、
 現代詩はその外部に飛び出したものであり、それを「まがいもの」の世界と呼ぶわけだね。

 「詩人の仕事というものは、いつでも詩そのものを疑い、壊していくところから始まる...」
 という入沢の論からしても、従来の詩の世界は耐えがたいものであり、
 そういう世界を記号として消費していくのだと。

 つまり、入沢自ら「パロディのパロディ」と呼んでいるのだけれど、
 それこそが記号として消費することになるだろう。

 この詩に即していえば、
 「八雲立つ出雲建が佩ける太刀」という出雲の勇士を讃える歌が、記号として消費され、
 ついには彼ら勇士の没落を哀しむ歌、替え歌としての性格を持つようになる変化だね、
 ...これはまさに、ボードリヤールのいう「まがいもの」の世界と同じ現象だと見て取れる。

 パリ大学に留学(1964年 - 1966年)していた天沢退二郎から、ボードリヤールらの現代思想の情報を得たのではないだろうか?フランス哲学は東大哲学派の独占的翻訳の世界だからねェ...。

 
          「リゾームの諸相と現代詩表現(2)」 に続く

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このページは、小林由典が2012年4月19日 22:54に書いた記事です。

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