荒川洋治、詩のことば・技術・私 (1)

私は荒川洋治の詩を、ほとんど読んでいない。文学青年ではなく行動者として1969年頃を生きていたから。荒川洋治は若い時分から詩を書いており、詩の世界で有名人になることを志していた。

 私はロシア語でロシア文学を読みたい、という単なる愛読者志向でしたから、心構えが最初から違っていたのだね。

 さて、取り上げるのは荒川の「技術の威嚇」(1977.10)から10年ほどたって、その後の反響・反論も含めて、彼自身が語ったものの要約的な抜粋だ。

 その前に前回、はからずも三好達治の名前を出してしまったが、その背景をまず説明しておく。
 大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、三好達治は次のように批判した。

 国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。
 意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...
 それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと...

 和漢の古典に対する素養では当節第一人者であり、「四季」派を代表する詩人三好達治の言葉に関する指摘は厳しい。要するに、言語感覚が鋭いか、鈍いかの問題だね。
 詩は基本的には、言葉の芸術、あるいは芸(あるいは技術)という面をもっていますから、
 言葉づかいが変てこでは詩以前の問題だ、ということです。

 それで、荒川ですが「技術の威嚇」という勇ましい言葉で彼は、何を伝えたかったのだろう。

 なぜ技術かといいますと、当時はあいまいな意味の詩がぼくらをとりまいていた。
 意味というものは調子にのりすぎるとさまざまな価値の幻想を生みやすいもので、
 それが僕には耐えられなかった。
 ムーディーな形で意味の取引が行われていて、技術的な苦しみを経ていない
 ...という事情は今も同じかと思う。

 技術は詩に二つの働きをする。

 一つは書き手の外側と
 もう一つは、内側と、関わる。
 読み手に伝えるため、と
 表現に正確さを期するため、という二つです。

 とくに後者の「内」技術は表現者にとってはおろそかにできないことですが、
 このあたりが実にいいかげんだという印象があった。

 自分の技術、表現力がどの程度のものであるかということはあらためて知らされもせずに
詩が書かれ読まれ流通していく。
 オンチのカラオケを毎晩きかされるようなもので、コトバのオンチでは詩は困るわけでして。

 まずことばの生理を知らなくてはならない。
 例えばどんな言葉にもその時点における質量がある。
 概念というか、ことばのそれは時々刻々とグラム単位で変化しているわけですね。
 そこをつねに計算に入れておかなくてはならない。それがことばというものです。

 あと、このAということばにBということばを続ければ意味合い色合いはどうなるか、
 どんな温度変化をきたすかというような展開(感覚)、
 行間の化学変化にも当然つよくならなくてはならない。
 もちろん作者は、これを一瞬のうちに、書きながらはじき出していく。

 こうした生理、化学的な(変化や反応に対する)判断力が表現そのものを吟味し引き締めることになる。

 ...というところで、ことばが客観的に動き出し、批評性というものが出てくるんで、
 詩で批評を書けば詩の批評性が表れるというのは、考えとして甚だ甘いわけです。
 批評性をスローガンにした現代詩は、
 まず意識が先行し科学計算をおこたりますから平板な叙情詩になってしまう。
 彼らがもっとも嫌っているはずの「文学的なもの」になっているという悲劇がおこる。

 ...こう言ってもその人達は気づかないかもしれないが。

 もうひとつ、叙情詩が書かれてしまうのは「私」が固定化しているためです。
 批評性というのは、「私」を ときどき 越えられるかどうかということであって、
 「私」を拡充したり抽象したりということをやってくれなければ、私小説になっちゃうわけです。

 日本の詩人はおしまいまでたった一個の「私」でやりとおす。
 そこがマジメでいいというけど、どうか。
 「私」をひと所にかこって安住するだけでは批評の詩は書けないですね。

 技術は詩にとって全身的なもの。
 うまいとかへたとかね、そういうレベルのことではない。

 ひとつの言葉を、どういまとらえるかで状況的になり、
 技術をどのレベルで使うかでも状況的になり、
 どのような「私」で語り出すかでも状況的になるということで、
 ...批評のネタがいちばん集まる場所であるわけで、

 「詩は技術ではない」と反射的に返してくる人たちの多くは、
 批評を志さない人というふうに言い切っていいと思います。

 従来の詩へのぼくの最大の不満は、
 狭くしているのはうまいが、広くしていくのは下手だ、
 ...ということでしょうか。

 「私」の抽象や拡充とかという自分を越えた場所では腰が弱くて、何もできないということがある。
 今の詩には「私」の数が足りないですよ。工夫もない。
 技術は広くするために使われるものであって、うまいとかヘタとかの問題ではない。

 ここまでを前半として、若干コメントだけをしておく。

 「自分の技術、表現力がどの程度のものであるかということはあらためて知らされもせず
 詩の世界が、妙に情実と寛容で廻っていることを何度か指摘しているけれど、その結果だ。

 「私」を対象化して、批評意識を介在させつつ表現者として言葉を選択するならば、
 自分の技量を過信することも、過小に卑下することもないはずだけど...

 作品を読んで、何らかの変てこな違和感を感じ、ついつい批評意識が起動してしまう場合、
 その詩がどこかで生煮えで味わう以前に、どこが生煮えなのか詮索してしまうからだろう。
 それで、言わずもがなだとは思うのだけれど、その違和感をまず表明することになってしまう。

 些細なことだけれども、指摘せずにはいられないのは、私があまり寛容ではないのかという気分がつきまとっていたのだけれど、
 「技術は表現者にとってはおろそかにできないこと」だという荒川の言を読みわが意を得た、
 と胸がすく思いです。私は、お節介な添削をするつもりはないのだナ。言わずにおれないわけ。

 吉増剛造の『オシリス、石の神』をじっくり読みはじめたのだけれど、
 あれだけ長い詩を書いていても、一言半句もゆるがせにしているところがない、ということに驚く。

 それでいて、あらゆる規範からまったく自由自在に言葉を繰り出しているように感じる。

エマ            詩集『熱風』より、「絵馬」


ひらら

 左は、吉増剛造詩集『緑の都市、かがやく銀』から

「ひら、ら」です。

 

 
この( かっこも、句読点の位置も、空白行も、
作品の一回限りの定型性の中で
なにひとつゆるがせにできないほど、
その作品の「法」にかなっているからにちがいない、
...と

朝吹亮二は解説しています。

 優れた詩人の優れた作品というのは、余計な批評意識が入り込む隙間など見あたらない。
 そういうすぐれた詩を読み、自分と比較してみれば、自分の力量がどの程度なのか思い知らされるのではないかな。

 次に、「私」の問題ですけれど、首尾一貫した「私」を保持している表現者というのは、
 よほどハッピーな人に違いない。

 石部金吉のような凝り固まってしまった石頭の人でなければ、そういうまねはできないだろう。
 そんな人は詩なんぞとは無縁のひとのはずだけどね。
 ペンネームは不動巌とかいうんじゃないの。

 そして、狭くすることで詩を書いている人たちの存在だね。
 私が四畳半詩と呼んでいるやつで、その狭い世界に限定して、
 些細な事象に拘泥し、ルーペで覗くような視線で、
 手慣れた筆致でそつなくこなす人が少なくない。

 それで、私のような詩を世界が広すぎる、などと大ボラ吹きであるかのように批評するのだねェ。

 内面を外界に接触させる面積を少なくすることで、外部との緊張関係を避けようとする。
 自己完結的な詩というのは、「私」を囲いすぎて、内的な批評性を失うだけでなく、
 外部からの批評にも背を向ける、という不毛な詩作態度なのだと思う。

 むしろ、外部との緊張関係をいかにつくり出していくかが、
 今日的な課題として問われているのだ。

             「詩のことば・技術・私(2) 」につづく

 

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この記事について

このページは、小林由典が2012年4月 8日 20:54に書いた記事です。

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