ゲニウス・ロキ、詩の領土性と非領土性

ゲニウス・ロキ とは、ローマ人の神話世界における土地の守護精霊のこと。入沢康夫「わが出雲・わが鎮魂」について、吉田文憲が「さみなしにあはれ」の構造として論じている

 「われわれの詩的風土は、とりわけゲニウス・ロキの喚起力は、この数行によってトドメを刺された、といえるのではなかろうか」と、吉田は指摘する。

 詩の冒頭は次のように始まる。

   よせあつめ 縫い合わされた国
   出雲
   ......
   借りものの まがいものの
   出雲よ
   さみなしにあはれ

 最初の二行は記紀および出雲風土記の記述から導かれたもので、文字通りの意味だ。

わが出雲 (画像をクリックすると拡大画像がポップアップします)

  この詩は出雲出身の入沢にとって、鎮魂の詩であると共に、メタ詩(メタポエティック)として入沢の詩学が重ね合わされている。

 「よせあつめ 縫い合わされた」(王)国、というのは天地創造の記述であると同時に、
 ヤポネシアという列島の領土としての有様だと言えるし、
 詩的言語の現状を述べたものだという寓意性を......入沢が与えているだろう。

 入沢康夫詩学が明確に表されているのが「借りものの まがいもの」という現代詩批判である。
 「さみなしにあはれ」は、記紀の記述そのままで、「出雲建が佩ける太刀」の(刀)身がないということを、現代詩の言葉に懸けて、多義的な意味をもつ「あはれ」にむすんでいる。

 吉田文憲は先の記述に続いて、次のように書いている。
 詩の舞台が、出雲であれ、三多摩であれ、北秋田であれ、そこには必ずもはや「虚構」の意識が忍び込み、「よせあつめ 縫い合わされた」「借りものの まがいもの」という形容句が、われわれのエクリチュールの素性を明らかにするように鳴り響き、冠さってくる。

 これは要するに、

 表現者の多くが通過する己の出自認識、
 あるいは自分の感性の源である原風景、
 詩的世界の端緒となる神話的記憶あるいは幼小期体験、

 ...そういう「地の声」幻想はもはや初発の意義やオリジナリティ的な有効性を失い、
 「さみなしにあはれ」であるという覚醒を踏まえた上でなければ成立しない、
 ...という宣告がなされたのだ、と。

 では、なぜそういうことが言えるのだろうか、経緯を振り返っておこう。

 「郷愁」と「故郷嫌悪」という表裏一体の感情は、現代詩の創生期から戦前まで詩のテーマとして様々な形で詩に取り上げられてきた。

 たとえば石川啄木であり、萩原朔太郎であり、詩人に限らず郷土出身の文化人として私がお話を伺った彫刻家の飯田善国さんや作詞家の大御所である船村徹さん、ノンフィクション作家の柳田邦男さんとか......、福岡県田川市出身の画家・彫刻家である立石大河亜さんとか、みなさん一様にこの複雑な感情を表明していることに気づく。

 そういう中にあって、萩原朔太郎は『月に吠える』や『青猫』の世界を彩る郷愁概念を、(先験的な)故郷喪失における「郷愁」という、より高次な概念へと開拓していく。
 『郷土望景詩』から『氷島』にいたる作品群がそれに相当するだろう。

 この変化は、当時の文壇における「文学界」グループと「日本浪漫派」との覇権争いの過程で醸成されたきたものだといってよい。つまり、「郷愁」というポエジーは、ロマン的アイロニーとしてしか成立し得ない、という見方がまさっていくという経緯をたどる。

 戦後の廃墟と空漠とした社会をT.S.エリオットの「The Waste Land 」に擬して、詩の再出発を遂げた荒地派の詩人たちの多くは戦前のモダニズムの流れを汲むが、このモダニズムは萩原朔太郎から保田與重郎、小林秀雄の系譜に連なっている。

 萩原朔太郎にみられる大衆に対する嫌悪と信頼という二律背反の感情は、アイロニーとしての「郷愁」の変奏に他ならない。

 このような歴史を経て、戦後詩が登場することになった。

 その一つの象徴が田村隆一の<垂直の詩学>ではないだろうか。

立棺 「立棺」、第二連の冒頭を取り上げてみた。

 「虐殺された多くの声が/地上から追い出されて/亡命者になるのだ」

 詩人はポエジ-の源泉である地上(=領土性)から追い出され、
 かつ自らその領土性を拒否して、
 樹木や窓や飛ぶ小鳥という非地上性(=非領土性)を担う言葉の世界で、
 ...詩の世界を獲得しようとする。

 戦後の復興のような、大衆的無定見性をもって水平に広がってゆく、
 カラ明るくきれい事に化粧された詩を書いていくことは、
 ...死者たちから許されることではない。

 <垂直的>とは、そのような意味をもっているだろう。
 「大きな木が好きだ」とは、そのような意味を持っている。

 であれば、「広い野原が好きだ」とは、どのような意味を持っているのだろうか。
 それは次の一行が雄弁に語ってくれる。
 「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
 田村隆一の詩的空間は、事物的領土性から飛翔した言語世界という非領土的な大地性に向かっていったのだ。

 このことが了解されれば、「広い野原が好きだ」という言表は、好々爺となった(?)田村翁が素直に現前の風景を見て詩的感興を吐露したもの、などと解釈できないことが了解されるはずだ。

 野村喜和夫は「これからの田村隆一」(『現代詩手帳』1998/10月号)で次のように書いている。

 「垂直性は非領土をめざす。なぜなら、直立して爪先立ち、あるいは高さにめまいをおぼえて、危機や恐怖につらぬかれている主体にとって、地に根ざしたアイデンティティーなどはほとんど意味がないからだ。およそ領土性と呼べるようなモチーフほど田村詩学と無縁なものはない。

 一般に、不安は水平的領土的であり、たえずアイデンティティーの希求にさいなまれるのに対して、恐怖は垂直的非領土的であり、アイデンティティーとはまるで切れたようなふるまいをするといえよう。」

 

 清水透は「新選入沢康夫詩集」の解説で、次のように述べている。

『根の国』としての出雲とは、詩の端緒の地、作品の成立すべきその根源の場なのだが、
 じつはそれは端緒なき端緒の地、あらゆる出発が再出発にほかならぬ地、
 真の端緒、真の中心を求めて近づこうとする歩みが、すべて、
 死の雰囲気に滲透された無眼の彷徨となってしまうような地なのである。

 この文章は80年代半ばに書かれたものだが、戦後詩以後の現代詩が苦闘をしている状況が反映されているようだ。戦後詩は約40年かかって成熟し・衰退し・解体していったが、このような先達の苦闘をまったく考慮せずに昭和初期の如き古い現代詩を無自覚に書いている詩作者が少なくない。

 繰り返しになるけれど、再度確認しておきたい。

 伝統的詩歌から離脱して出発した口語自由詩である現代詩は、
 第一に等時拍である七五調のリズムを捨て去り、
 第二に花鳥風月詠にみられる自然的感性を、戦後詩によって解体され、
 60年代詩以降、戦後詩的な言葉の意味および倫理的な重さをも拒否して、
 作品の成立する端緒の、あるいは根源の場をも解体した(根なし)、

 ...ということになる。

 なるほど、60年代の詩人である天沢退二郎は1971年に「根なし草」を書いている。
      私は信じたい、じぶんが根なし草でないと。

 70年代前半に『古典力学』を書いた私は、自分をデラシネ(根なし草)であるという認識から出発していたのだが、荒地派から60年代の詩人たちとは異なる、大きな物語の消失した谷間の世代という時代的な差異を意識していたからに他ならない。

 そのような時期に入沢康夫「詩の構造に関する覚え書き」を読んで、言葉を壊すという方法論をそんなバカなと思い、ついぞ入沢康夫の詩を読んだことはなかった。
 けれど、今回、吉田文憲の文章にひかれて、まとめ買いしていた現代詩文庫の中にあった「わが出雲・わが鎮魂」を読むこととあいなった。

 たいへん、驚いた。感性的に似ているものすら感じる。
 詩論だけを読んで、毛嫌いしては見誤るなと反省するばかり。

 出雲は入沢の実質的な出身地であるだけに、鎮魂的重さをもっている。

 私が一昨年書いた「※はださわり」は、歌の始まりとされる「出雲八重垣」の歌を本歌取りして、
 「※のきぬ」と結んでいるものだけれど、あくまでも言葉の磁場に浮遊する意味性を換骨奪胎して、
 音的側面のみを取りだしたものだ。 (「※しろしめす」の続編にあたる)

                「詩のページ」をご参照下さい。
 
 たしかに、
 「あらゆる出発が再出発にほかならぬ無眼の彷徨となってしまう
 ...という迷路をわたし自身も通過中だな、という思いがするね。

 それで、例によって、「わが出雲・わが鎮魂」を換骨奪胎して、那珂太郎的に再構築してみた。
 詩のタイトルは「みだりみだるみだ」...ノンしゃらん系の詩として、組み込んだ。

 ひんしゅくを買いそうな詩だね。意味不明でけっこう。
 詩中に出てくる「劍宮」(つるぎのみや)というのは、私が小学生時代を過ごした本籍地の旧名。
 現在は「二荒町」となってしまい、もはや実感がない。

 この二荒山神社の階段前に拡がる石畳の広場(現在では当時の様子は見る影もない)こそ、
 ジャコメッティの「広場」に戦慄した私の墓場幻視体験の場所なのだ。

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このページは、小林由典が2012年3月31日 12:29に書いた記事です。

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