スペース指向/非スペース指向の詩

社会が個人を疎外してゆく度合いを増すにしたがって、抗うように同人誌的小集団現象が、1980年代中頃から全国各地で発生している。これは、どのような意味あいを持っているのだろうか?

 社会的無関心と自己中心的思考は、現代社会が個人を疎外してゆく度合いを増してゆくにしたがって顕在化してきた社会現象だ。他方で、この閉塞感に抗うようにして、コミュニケーション志向のミニコミ誌や同人誌が流行してきたといってよい。

 ここでいう「スペース」とは、同人誌的小集団の世界のことを指す。

 「スペース指向」の言語は、表現意識とコミュニケーションとが実態として重なってくる、ということではないか」と、鈴木志郎康は指摘している。

suzuki_ayukaw02.gif

 鈴木志郎康は、時代状況を充分理解しながらも、ばっさりと切るね。

 この対談は『現代詩手帖』に発表されているのだから、カルチャーセンターの教え子の皆さんたちに読まれることは確かだね。「詩人はいない、作品もない」なんて。

 谷川俊太郎がキャッシュの言葉とフローの言葉として、キャッシュの言葉を必死で守っていこうとしているけれど、フローの言葉であるコミュニケーション詩が増えてきた、という状況に抗しているわけだ。

 再び、鮎川信夫と鈴木志郎康の対談を引用しておく。

鮎川
 信じたければ何を信じてたっていい。詩人が天動説を信じてたって誰も一向に困らない(笑)。
 死もまったく同じで、体験はできないが、知識で知っているだけで充分。大抵その知識よりずっと内輪のものだからさ。それを越えた何かがあるなんてあり得ない。

鈴木
 僕の感じでは、生きているときにあるグループ(共同体とはいえないような)の中で、孤独が癒されていたらそれですむと思うんです。
 ただ、孤独が癒されない場合、行き場所としてはここではないよってのが出てくると思う。
 向こう側を作りたくなる。

鮎川
 事実、宗教というものは全部、その向こう側を作ったわけでしょう。

 これは吉田文憲の詩について話している箇所です。

 鈴木志郎康は、「表現の中でみんな孤独になっている。吉田さんはその孤独の中で、こっちではなく向こうでコミュニケーションを行えるんじゃないか。そういう現在の精神の動きを鋭敏に表現の形にしているんじゃないかと僕は思います」と理解を示す。

 さすがに、鮎川信夫は時代から取り残された観があるけれど、鈴木志郎康は現役という感じがする。向こうの世界を(他界)ではなく、バーチャル・リアリティとかネットと言いかえれば、今日でも通用するだろう。

 表現の中でみんな孤独になっている、のか...。
  わたしは、表現行為というのは初めから孤独なものだと諦観しているけれど...。

 それで、興味深いのは「こちら側でコミュニケーションをとろうとしている」スペース指向の詩と、向こう側で非スペース指向で書かれた作品との違いというものだね。
 次に対照してみたい。(画像をクリック)

濡れた星  『ユタ』の白井恵子さんの詩ですが、上に述べられているようなコミュニケーション指向の意識を基盤として成立しているように思う。つまり、言葉の伝達性に全体重をかけている表現だな、と。

 「濡れた星」ですから、素朴な花鳥風月詠ではなく、象徴派に連なる言語感覚だといえる。

      海岸に吹く風がかわった
      そうか
      また新たな一年が始まったのだ

 この出だしは意味的に追っても、通じないかと思える。
 論理からすれば、海岸に吹く風と新たな年とは何の関連性もない。
 無理にこじつければ、元旦の初日の出を見に行って、日の出とともに風向きが変わった、となる。

 けれども、低気圧の接近とか不定要素がない限り、海風・陸風の変化は日の出や日の入り直後ではない。陸地が温められる時間、あるいは温まった陸地が冷えていく時間に、海風と山風とが吹き始めるので、数時間のタイムラグがある。

 それでは、風向きではなく、風の別な要素が変わったというのだろうか......
 ...と考えていくと、これは心象風景なのかもしれないな、と思える。
 すると新たな一年というのは、たんに新年のことではなく、心的なリセットを景観に託した表現なのかと。
 清岡卓行ふうに言えば、ここには「どうしても表現不足があります」というところかな。

 明確でないところは他にもあるのだけれど、女性詩だから内的な感情でメタ文脈を繋いでいる、可能性は否定できないね。
 
 恋愛詩は、古代の短歌の時代から手を変え品を変え詠われてきて、今さら何を付け加えることがあろうかという思いを抱かざるを得ないのだけれど......。永遠、なのだね。永遠に繰り返される。

 <雲、砂につけたあしあと、時、くずれる白波...>
 これらの語彙に込められているのはすべてはかないものの象徴であり、(こわれものとしての恋愛の)未来への不安感を示唆している。

 色に現れ出ることを耐えて抑える、古風な抒情表現ですけれど、
 コミュニケーションとして伝えたいことは分かる。

 男が読めば(大悲(慈愛)風のごとく)包まれるように感じ入る詩であり...
 素直に開かれた言葉であり、詩なのだ。

 素直であるということは自然的感性の賜なのだけど、
 それはとりもなおさず言葉に対する働きかけが希薄だ、ということになる。
 こちら側のコミュニケーション、ということになるだろう。

 現在の現代詩的感性から読めば、
 お嬢様芸的な物足りなさを、感じるかと思う。
 けれども、スペース指向の同人誌の詩として読めば、男性読者の心を蕩かすだろうね。

 論理脳が疲れた私の場合は「白波」を黒千代香(くろじょか)でお湯割りにして飲みながら......、
 ...こっそりと、読む。

 次は、非スペース指向の詩といってよい山本陽子の「よき・の・し」から、後半部分を取り上げる。

     その言葉を地に埋めよ
     かつてすべてが刃向かっていて
     おまえの仄を噴き出したら
     汗に黒さびた金属(かなもの)を
     ずきずきと踏み 風にはなて
          かつて死んだひとりの男がいて
          かってにしやがれと呟いたとき
          かってなき塩の結晶が造った
          朝の食卓にピケルスがあった
          かつてあったひとつの種が
          身をやくたねをもとめたとき
          木々は交れり火花散した
     かつてある禁忌が衣、ばさりおとし
          かってなきことについて
          かくてかってにあるときには
     魔術がひとをかなしばりする
     いまは
     いまわのきれなるかた、
     僧侶の裸体に手濡れつくし、
     身体にこれ小鐘がなると、
     あけ方に骨きしむ勤行がおこる、
     しぜんてきしぜんがしぜんするあいだは、
     ひつぜんすべては、
     おまえがうみだした卵ばかりだ

           あらゆる魔術を変身しつくし
           いかなるひとも
           あとにのこすな
           あらゆる大陸をわたりはなら
     いかなるもの、いかなるあし、いかなる、は
     をも 露に尽きさせ 冬にくだけ
     あとに あとをのこすなら
     おまえは死を譲り渡す、
     あとにのこしてきたものが
     無をおまえに譲り渡す、
     廃墟は、いつ いかなるともにあった、
     それは いつ いかなるときになかった、
     それは いま だけにある
     かつて現在というものがあるときに
     廃墟は未来のものであり、
     かつて現在というものがあったあいだ
     過去は未来の廃墟であり、
     かつてなかった過去の過去は
     いま だけにある、
     死のむこうにはなにがあるか
     死のむこうにはなにがないか、
     なくてあるものは
     いま だけにあり
     死は生のうちにひそみ、
     無をおまえに譲り渡す
     否、やさしく勇気あるいかりを決して
     決してあとにおとし、あるものとなしてはいけない。
     冷却したすべて
     というものには
         死の数否ひそみ
         冷い凝乳に
         悪はうせる
     朝の立売りには昨日という、
     いまわの過去が巻きパンとともにやってきて
     さらばということばをいくらかだけはかせ、
     夜の冷気までに死はちかんしていた
     決して決して
     あとをおとすな、
     あとに、
     全けき白さをひっさらって
             死のとりでをのりこえよ
     もし、ということばはらむなら、
     決して決して
     ならばとは
     いうな、
     もしをもしものものからやかれよ

 何か、サルトルの「存在と無」の中に、誰かの独白でも挿入されたような詩、という感じだね。

 「かってなきことについて/かくてかってにあるときには」...有と無の二項対立
 「いまは/いまわのきれなるかた」 ......同音異義語のダジャレ
 「しぜんてきしぜんがしぜんするあいだは」......漢字の物象化と即物的表現のひねり
 「廃跡は、いつ いかなるともにあった/それは いつ いかなるときになかった/それは いま だけにある」......弁証法的表現

 かなり思考が屈折した表現ですけれど、感情的にはパセティックで一直線な印象を受ける。

 「全けき白さをひっさらって
             死のとりでをのりこえよ」......という言葉に、ハッとしたのだけれど、

 山本陽子は、菅谷規矩夫さんと同じような死に方を選択していますね。

 <全けき白さ>とは何を指しているのだろうか。その前の行が暗示していよう。

 <あとをおとすな、
     あとに、

 ......痕を落とすな、後(あるいは跡)に、ということだけれど、

 ......簡単に述べてしまえば、「白い紙」とは、白いページだけの詩集だと。
 それは、ひとえに、詩的言語の外を意味しているだろう。
 言いかえれば、弁証法の外側ということになる。
 つまり、ハイデッガー的な「死の先駆的受容」者の世界内的存在の有り様、ということだ。

 ( ...菅谷規矩夫さんの死は、「論理の死」を示唆しているらしい......。戦後詩の終焉を担いきった菅谷にとって、必敗者の涅槃しか残されてはいなかった、ということだ。)

 こちらは、愉しんで書く、という世界とは一線を画しているのだ。きびしいね。

 追記

 菅谷規矩夫について、瀬尾育生は『われわれ自身である寓意』のなかで次のように記している。

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 ここでいうエロスとは日本語の意味ではなく、ギリシャ語の< Erōs>。

 ......受苦として起こる「愛」を意味する。プラトンは「饗宴」の中で、イデアにおける「真・善・美」の世界に到達しようとする最も高次元な愛をエロスと呼んだ。

 ついでに、フュジス(Physisi)もギリシャ語で、神々も人間もその文化もすべてを含む存在者の全体(万物)を指す。日本語でいえば<大自然>と、翻訳される。

 死の意味については、「言葉のふるまい(2) 」(ヘーゲルハイデッガーの弁証法)を参照下さい。

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このページは、小林由典が2012年3月19日 03:08に書いた記事です。

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