現代絵画、視覚効果の面白く深い世界(2) 上野在森

鑑賞者の自由な感応に委せる度合いの大きい非具象絵画は、具象絵画とは対照的に、個性的ではあるけれど謙虚な表現なのではないかと思う。Arimori Ueno の世界を覗く......。

 上野画伯の絵を視ていて、あれこれ目をむいたり、細めたり、好き勝手に想像しているうちに、
 なんとなしに、開放感を感じたのだね。

 どこか硬直しがちな私の頭脳というか心というべきか、もみほぐしやわらかにするものがある。
 下の絵をクリックすると、より大きな画像がポップアップします。

from_in_yello-3.jpg これはどうかな?
 また、全然違う視覚効果を持っているかと思う。
 
 中心近くにある少し色の濃い黄土色から周辺に向かって、なにか沸騰するものが吹き出し、拡がり、沸き立っているような印象を受ける。

上野在森・画 概念的にいってみれば、大地のもつ生命力の噴出という印象だな。
 宇宙的にみれば、ウパニシャッドのサットヴァ・カルマンを表しているような。
 日常レベルではこれからの時期、草たちがいっせいに芽吹くときの雰囲気を持っている。
 皆さんは、どう感じるだろうか?

 この絵は、私が勝手に「saint」というファイル名をつけて、掲載させていただいた。

 中央にある黄緑色の上端近くに人物の顔らしく見えるところがあるだろう。
 私は横たわる仏陀を連想したが、キリストを連想することも可能だろう。
 周囲にある白と黒の模様は、インド服を着た人の群れ、みなうなだれ、嘆いているのか...。
 偉大なる魂は大きく描かれるのが宗教画の常道ですから、違和はないかと思う。
 
 まあ、顔なんぞ見えないという方は、別なイマージュを持つかもしれないけれど、
 とりあえず自分の感受を大事にしたいね。

peoples.jpg

 この絵は具象絵画ならば、雪国の夜祭りのような光景に見える。
 所々に、ローソクを立てた小さなかまくらがあって、群衆の足元を照らしている...

 香月泰男のシベリア画集に出てきそうでもあるし、
 秩父の夜祭りの賑わいだといっても通るだろう。

 けれども、そういうことなしに、この絵を周辺視で見ていると、
 大小色々な人の顔が浮かんでは消えるのだ。
 人の顔というところが、何か心理的な意味があるかと思うな。

 ひとの悩みの大半は人間関係に由来するものだといわれるけれど、
 それを象徴するのは「顔」のイマージュだろう。

 顔の表情から、その人が不機嫌だとか、怒っているとか、侮蔑的だとか...
 (悩みですから、悪い印象ばかりになりますが)われわれは読み取る。

 周辺視という見方は、私の趣味である渓流釣りの奥義のひとつだけれど、
 宮本武蔵が「五輪書」の中で説く「見の目弱く、観の目強く」すると、得られる見方で、
 一点を凝視しながらも、ぼんやりと周辺全体に気配りをする見方だね。

 これは、脳科学的にはアルファー波優位の状態の時にうまくゆくものであり、
 なにかの気配を感知する動物的な直覚が働いてくるような気がする。カンが鋭くなるようだ。

 とにかく、どの絵もイマージュがわんさわんさか湧いてくるタイプの絵だけれど、
 ひとことで言えば万華鏡を覗く経験に近いものがあるかな。
 詩でいえば萩原朔太郎的なものが感じられる。

 朔太郎自身はゴッホの絵に啓示を受けて詩的出発を遂げたのだけれど、
 後期象徴派から未来派に至る律動的な象徴性、というものに対応するだろう。

 朔太郎の「竹」は、実際の竹のrepresentation などではなく、思想的な象徴詩であり、
 地面を境に、空中へ生え・伸びる、勢いや鋭さをもつ運動性、
 地下では水平的で方向性の定まらない、震えるような分散性
 ...を意味している。

 そのような運動性と相通じるものが、非具象であらわされているように思える。
 この感想は、私が詩を書いており萩原朔太郎を連想したことに引きつけられたものだけれど...。

 非具象絵画は、見るものの想像力を刺戟する......ところが、いいよね。

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このページは、小林由典が2012年2月26日 23:59に書いた記事です。

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